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CHAPTER 1

第1章

 ベルリンの壁が崩壊した年の翌年。4月の半ば。
 まだ通い慣れていない専門学校の授業が午前中に終わり、上野駅から渋谷駅へと向かう山手線の車内の中で、18歳の平井文隆は、カセットテープに落としたストーンズの「Rock And A Hard Place」を聴きながら、けばけばしい耳障りな女子高校生らの会話を打ち消そうとしていらいらしていた。平井はリモコンを使い、ウォークマンのボリュームをめいっぱい上げた。ミックの唾を吐き捨てるかのような生々しい肉声や、キースとロンのギターがけたたましく耳の中で鳴り響いた。窓の外の矢継ぎ早に消えていくアパートの壁面の乾いた色が、彼の眼の網膜を刺すかのように痛々しく刺激した。
 渋谷駅で落ち合った西山真守は同い年だったが、背は平井よりも幾分か低く、小太りの体型だった。前に会った時は高校1年の時で、彼は平井と同じ小中学校を卒業した。高校ではさすがに離れたが、2年ぶりに会った西山は予想どおり少し大人びて見えた。
 平井と西山は井の頭線の電車に乗り込み、下北沢の劇場で小劇団の演劇を見る午後の時間を過ごした。
 
 その日はよく晴れた土曜日だった。
 下北沢から渋谷までの井の頭線の混雑ぶりは、当たり前とはいえ不快だった。渋谷から池袋までの山手線も人混み具合は似たようなものだったが、サラリーマンが多くやや静かに思えた。平井と西山は池袋線に乗り換え、ようやくその電車で座席に座ることができ、気分も落ち着かせることができた。西山はひどく汗を掻きながら、平井に向かって小声でぼそりと呟いた。
「あれ、キャバい女の太ももの網タイツにムラッとこない?」といいながら、ホームにいる女の方を指した。女はたばこを吸っていた。平井は何も答えなかった。女の腿の肉が、網タイツに食い込んでいるのが見えた。西山は「ヘヘン」と声を出して笑った。
 
 江古田駅を過ぎたあたりで西山と平井は話し始めた。
「劇団月とシャボンって、意外とダンスが多いんだな」
「ああ、そういえばそうだね。ダンスのことはよくわからないけど、ミュージカルってほどでもないんだね」
「今日の劇、金を盗んだ喫茶店のマスターがしどろもどろになって、客が注文したホットココアを一気に呑んじゃう場面、あれ面白かったな」
「ああ、あそこは面白かったね」
「マスターの恋人の名前、なんつったっけ?」
「シノ?」
「そう、シノ。そのシノって役の子さ、なかなか可愛かったと思うんだけど、なんであんな、アルプスの少女ハイジみたいな服着てんの?」
「さあねえ、なんでですかねえ」
「赤っぽいワンピース着て、茶色の靴履いて、チュ、チュ、チューリップのアップリケだったじゃん」
「ほんと、おかしかったよね」
「あのあと、マスターがシノに金盗んだこととか全部告白して、そんでさ、シノが、いっしょに逃げようっつってさ、なんでかしんないけど、二人で踊りだすじゃん。あれなに、スペインの歌?」
「スペイン? ああ、なんだろね。ギターの演奏の時の歌だよね? あれは、もしかしたら、ジプシーかなんかの歌かもね」
「ジプシー。そっち系の雰囲気あるよな」
 平井は帆布製の鞄の中から、ワープロ打ちでつくられた『大いなる夜明けの町』という公演名のチラシを取り出して眺めた。劇中の音楽のことはどこにも書いてなかった。
「月とシャボンの次の公演も、見に行く?」
「うーん、どうしようかな」
「次って、たしか、シモキタじゃなくて、高円寺だよな?」
「そうみたいだね。アトリエ・ドンファンだって」
「どこだよ、それ」
 平井の目の前に立っている眼鏡をかけた若いサラリーマンの男性が小刻みに動き出し、右手で持っている革製の鞄を左手に持ち替えし、また右手に持ち替えしたりしていた。平井はずっとその動きを見つめていた。上を見上げて顔を見る気にはなれない。鞄を持った右手の指先に力が入って動きが止まった。白っぽい指だと思った。中指の爪が、やけに伸びていて、平井はそれも気になっていた。
 
 大泉学園駅で学生が大勢乗り込んできた。車内は一気に満員状態となった。
 西辺城駅に着くまで、二人の会話は途切れたまま無言だった。駅に降りると、醤油系のラーメンの匂いが鼻を突いた。平井は思わず中華そばのメンマを想像した。
「ああそうだ、盈科塾(えいかじゅく)の演劇ワークショップさ、けっこう面白いから、おまえもくれば?」
「盈科塾かあ。そうだなあ、行ってみっかなあ。来週の日曜だっけ? ニシも来んの?」
「オレは来週わかんね」
「なんか持っていくものとかあんの?」
「とりあえずジャージだけでいいんじゃん?」
「ジャージかあ」
「それ以外のものはさ、盈科塾の稲葉さんが用意してくれっから、大丈夫だと思う」
「ニシ、おまえほんとにワークショップ行ってんの?」
「行ってるよお。サボる時多いけどな」
「そっか」
「そんでこれさあ、この前新宿の紀伊國屋書店で見つけてきたからさ、おまえに貸すよ」
「なにそれ?」
 西山が平井に渡したのは、表紙の3分の1が濃い橙色に印刷されたフランソワズ・ロゼイの『俳優の手帖』という本だった。全体的に薄汚れていて新品の本ではない感じがした。
「フランソワズ・ロゼイって誰?」
「知らん」
「知らんって、どういうこと?」
「演劇のコーナーから適当に選んで買った」
「ハハハ。紀伊國屋まで行って、おまえすげえな」
「まあまあまあ、俳優って書いてあんだから、いいんじゃん? 演劇の本でしょ?」
「知らねえよ」
「まあまあ、いいじゃん。貸すよ」
「ああ、わかった。じゃあ、気が向いたら読んでみるよ」
「せっかく買ってきてやったんだから、ちゃんと読め」
「ニシ、あんがとな」
 
 駅の改札口で平井と西山は、別々の方向に分かれていった。平井は歩いて5分ほどのところにある駐輪場に行き、自分の自転車の鍵を外して、商店街の中を駆け抜けていった。なんてことはない街中だった。あまりにもありふれていて、目新しいものが何一つないと平井は思った。白いエプロンをした中年くらいの女の人が、平井の自転車の前を横切った。女の人は疲れ切った様子だった。
 小学校の近くを過ぎると、おもむろにチャイムが聞こえ、日が暮れようとしていた。赤々とした西の空が見え、どこからか黒い蝙蝠が飛んできて、すぐ目の前の電柱の先を越えて消えていった。平井の持っているウォークマンは鞄の奥に入っていて、帰り道でテープを聴くことは一度もなかった。彼の好きなロックのサウンドは、この町に似合わなかった。あたりはすっかり平凡な夜の風景へと変わりつつあった。

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この物語はフィクションであり、
登場する人物・団体等の名称はすべて架空のものです