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CHAPTER 10

第10章

 7月下旬の日曜日の午後。平井と西山は、市民文化センターからそう遠くない北西にあるアオイ自然公園に来ていた。そこはキャンプ場が隣接されていて、家族連れのキャンプ愛好家たちが、ところどころテントを張って過ごしていた。あたりは森林に囲まれ、方々で白色や薄紅色のムクゲが咲き、夏の青空が広がる湿った空気の午後だった。平井は子どもの頃、たまに友達の男の子とアオイ自然公園に訪れ、ハス池でメダカやオタマジャクシを捕まえたものである。
 
 キャンプ場の一角に設置された黒っぽい仮設テントの周囲では、「青燐光」の複数のスタッフが開演の準備をしていた。彼らはみな、背中に「舞踏 青燐光」と毛筆書体で記された黒のTシャツを着ていた。
 平井が腕時計を見ると、まだ1時半だった。あと30分ほどで開演となるはずだが、スタッフらの表情はなんとなく重苦しい感じがして、開演前の緊張感とは少し違った雰囲気を漂わせていた。彼らは1年を通じて地方巡業が多く、いわばサーカス集団のような、ある種の強い結束力を伴った劇団であったが、いま彼らには、そういう連帯感が失われているようにも見えた。
 
 ブルーシートが横一列に3枚ほど敷かれた「観覧場」には、キルト地に似た薄い座布団を持参してきたお年寄りの男女が、仲睦まじく談笑していた。平井と西山はその隣に腰を下ろした。椅子席は無く、じかに腰を下ろして座る形態であった。
 キャンプ場のその一角は、膝の高さほどの雑草の生えた平地であり、ここで「青燐光」の舞踏の野外公演が行われるのは毎年恒例であった。ただし、平井が実際に観るのは初めてだ。平井は幾分興奮しながら、周囲を見回してみた。およそ50人か60人くらいの観客がシートのそれぞれに座って開演を待ちわびているようだった。
 
 平井は持っていた印刷物に目を通した。
「劇団『青燐光』7月公演」
「ジョン恩田★プロデュース」
 スタッフ名の記述の下に、こんな文面があった。
「真夏の干からびた地面から声がきこえてくる
それは娼婦の声
シャムイによって連れ去られた女たちが
地底に眠っている
シャムイが歌う
ドンドドンドンドーン ドンドドンドンドーン」
 なぜか、その印刷物に演者の記載が無いのが気になった。
 
 麦わら帽を被った中年の女性が、遠くを指さした。サングラスに森林の樹々が映り込んでいる。その女性が指さした先には、白い半袖シャツを着た二人の男の子たちがいた。元気そうにキャッチボールをしていた。
 耳をすませば、彼らの声がわずかにきこえてきた。西山がぽつりと呟いた。「球が意外とはええわ」。平井がしばらくキャッチボールに気を取られているうちに、目の前にスタッフが3人現れ、4体の白いマネキンを置いていった。観客がワッとどよめいた。
「あのマネキン、外人やな」
 西山がブツブツと息を吹きかけながら耳打ちするのはあまり気持ちよくなかったが、確かに奇妙な光景だと思った。真昼の森林地帯を背景に、4つの白いマネキンが佇立しているのだ。平井は、得体のしれないものを見続けている感じがした。
 だが、もう一度西山が何か耳打ちしようとした瞬間、平井ははっきりと見たのだった。左端のマネキンがほんの少し、まるで人間のように動いたのだ。平井は「あっ」と声を上げた。
 
 「観覧場」の前方の両側に設置されてある、JBL製の堅固な箱型のスピーカーから、大音響で奇怪な音調の音楽が流れてきた。開演らしかった。
 その時偶然、目の前のマネキンが倒れたのである。足の固定が不完全だったようで、観客の一人が「ああっ」と声を上げた。西山も驚いた様子で、「ええ? 倒れた」と呟いた。だがそのあと、スタッフが駆けつけるわけでもなく、倒れたままのマネキンがこちらを見ている状態で、音楽は鳴り続けた。観客はしばしどよめいていた。このあたりから、平井の記憶はおぼろげになり、曖昧なものとなっていった。
 
「地底の獣の望むべきは…その一つの世界の頂点に立つことだ…不確実な肉体と魂が宿るフラストレーション・パフォーマンス」
「醜いシャムイが呼んでいる…娼婦たちよ…おまえたちの淀んだ泣き顔を見せておくれ」
 まるで恐怖で心臓を掻きむしるかのような、女のえぐい声のナレーションが終わったと同時に、黒テントの中から土色の裸の男が妖しげに現れた。裸の男は、ジョン恩田らしかった。
 彼の股間はイチジクの葉の形をした布で隠されていたが、臀部はむき出しだった。ゆるやかにうごめきながら、上体を低く下げ、まるでオオカミか犬のように左右に首を振り、あたりを見回す動きをした。だんだんとゆっくり、平井たちがいるブルーシートの方に近づいてきた。うごめく腰がさらに低くなり、ほとんど地を張うくらいに低い体勢となった。やがて腹と胸が地べたに擦り付けられ、土色の裸体と草叢との交合が低い位置で保たれ、平井はそれを見て狂気を感じた。恐怖で鳥肌が立った。
 
 そうした恩田の独りパフォーマンスのあと、あろうことか真昼の太陽の下で、マネキンがまた動いたのである。ダンスをしているように見えた。全くありえないことだった。平井の意識は酩酊状態となり、見えるもの全てが薄暗く、靄(もや)がかかったようになって判然としなかった。
 
 奇怪な音楽が鳴り響いた。激しいリズムも付け加えられていた。土色の恩田の表情がこわばり、不可思議な舞踏の動作で飛び上がって、何度もジャンプを繰り返した。
 そのうちに彼の裸体は地べたと水平になった。爬虫類のように舌を伸ばし、横滑りして、倒れているマネキンの上に乗っかった。それは、獣が小動物を食うかのような動きにも見えた。が、倒れているマネキンの上をすり抜け、平行移動すると、その一瞬、裸体は速度を上げて腰をくねらせ、マネキンと交接するような動きをした。平井はそれを見て、〈獣姦〉と思った。
 
 恩田は両手で地面をかきむしると、あたりに土埃が舞った。土が掘り返されていく。やがて地面に15センチほどの穴が空いた。恩田はその穴に顔を近づけ、再び顔を前方に上げた。両手でさらに土を掘り、穴はより大きく広がった。
 恩田が穴の中に顔を入れると、今度はすっぽりと首まで隠れてしまった。裸体はそのまま静止し、その土色の肉塊は全く動かなくなった。
 
 その時突然、軽快な音楽が鳴り出した。聞き覚えのある「たま」の「東京パピー」だった。恩田の裸体が一瞬ブルっと震えた。
 すると「観覧場」の背後から黒子の人物が現れ、恩田の裸体の真横に、1体のピンク色のベアーのぬいぐるみを置いて立ち去ったのだ。何が起きたというのか。
 「東京パピー」の可笑しみのある音楽と、ベアーぬいぐるみの登場に、観客は失笑した。さっきまでのはりつめていた空気は一瞬に溶けて消え、ユーモラスな和みの雰囲気と化してしまった。〈舞踏…。果たしてこれが、恩田さん目するパフォーマンスなのだろうか〉。平井の酩酊は続いたまま、覚めることはなかった。
 
 気がつくと、そこは、混雑した喫茶店の中だった。目の前のテーブルの上には、クリームソーダが置かれていて、その背後に西山が座っていた。彼は柔和な色合いのマグカップを口に近づけていた。
 これはあとで西山に聞いたことだが、その店は渋谷の道玄坂2丁目にある、「林檎の樹」という喫茶店らしかった。平井は、西山とそこに行った前後の記憶が、全く無かったのだった。とにかく目の前に西山が座っていて、彼はくつろいでいた。
 
 鮮やかな紅色が目に飛び込んできた。左隣のテーブル客の女性が、オムライスを食べていた。ケチャップのトマト色が、平井には懐かしい天然色のように思われた。うつむいた表情の西山が、喋りだした。
「あれはどういうことなのか…知らないが、失敗だったんじゃねえの?」
 平井はなんのことかわからず、思わず「え?」と発した。
「『地底獣』のことだよ。クマのぬいぐるみの登場はいいとして、「たま」の曲を使うのは、失敗だったんちゃう?」
 平井はまだ、いったい何の話か思い出せず、どう返事をしていいのかわからなかった。かまわず西山が話を続けた。
「あそこまでチャラい演出をする青燐光じゃないんだけどなあ。もっとなんていうか、深刻に暗くて、でもどこかに希望の光が漏れてくる感じ? そんでさ、昔の土方巽のアンコクブトウみたいなグロさとかさ、寺山修司の殺風景な映像作品に出てくる、小便出しみたいな危なっかしさとか無くてさ、一般の人でもふつうに没入しやすいパフォーマンスショーで、恩田さんの人柄のいい、日本人離れした感覚がよかったんだけどなあ」
 平井は何もわからなかった。言葉に詰まった末、こう喋った。
「ニシは、そのブトウ? が…面白くなかった…ってこと?」
 西山は急に苦い顔になり、
「まあ、そういうことだね。がっかりっていうほどでもないけど。青燐光の舞踏のね、ベクトルが違ってきたっていう意味でさ、あの路線はヤバいんじゃないの? っていう感じがする。ドリフのコントじゃねえんだからさ、もっとちゃんとやってほしいし、コミカル路線にしたって魅力ないと思うよ」
 
 目の前に置いてあるクリームソーダのグラスのストローに口をつけ、平井はそれを飲みだした。口の中の爽やかな刺激から、思いがけず宇宙を想像した。
 確かにそれは、奇天烈な思いつきだった。宇宙なんて――。だがようやく意識がはっきりとしてきた頃に、平井は駅前のレンタルビデオ店に居るのだった。店内のポスターのダン・エイクロイドとトム・ハンクスの顔に平井は見入った。手には、『ファンシイダンス』のビデオテープがあった。平井はそれを借りた。
 
 翌日の夜、西山から電話があった。やはりあの『地底獣』の演出は、台本どおりの演出ではなくて、突然のハプニングらしかった。西山の後輩の木戸学が、前日の夜の部を観に行っていて、西山は彼から話を聞いたというのだ。
 恩田が市側との約束事を破って、臀部を晒したのがまず、マズかったらしい。警察沙汰にはならなかったが、恩田本人が市の文化協会に呼び出され、今後一切市内で公演を打つことができなくなったらしい。木戸が観た前日の夜の部では、臀部は晒していなかったというのだ。それから、「たま」の曲とか、クマのぬいぐるみの登場は一切無かったという。西山が興奮して喋りまくった。
 
「なんかね、喧嘩したらしいよ。恩田さんと他の団員の人が。立花咲子っていう制作の人が、わざと音楽を変えたり、クマのぬいぐるみを置くように団員に指示したらしいんよ。ぜんぜん演出がくるっちゃったんで、公演が終わったあと、恩田さんがブチ切れて、立花っていう人を殴ったって。鼻血出したって。結局はさ、恩田さんの女性問題が原因らしいんだけどな」
 前日の夜の部では、マネキンの傍に卵型のオブジェが置かれ、恩田がそれを大事に「温める」パフォーマンスだった。でも翌日、卵のオブジェが壊されているのを恩田さんが気づいた。それで、昼の部の公演にはもう間に合わないので、恩田さんが急遽、演出を変えて、マネキンのオブジェに乗っかるふうにした。ところが突然、音楽が「たま」になり、クマのぬいぐるみが出てきて恩田さんはまた混乱。あのとき観客も笑いだしたよな」
 
 平井は前日の公演の記憶をなんとか取り戻していたが、はっきりとは全部思い出せてはいなかった。西山がさらに興奮して喋りだした。
「立花っていう人、恩田さんの恋人だったらしいんよ。前に、盈科塾の稲葉さんと小高さんが喧嘩したっていったよな。そんとき小高さん、恩田さんに泣きついて、それからすぐ小高さんと恩田さん、何度かデートするようになって、まあはっきりいって、あの二人寝たらしいよ。それが原因で、立花っていう人、恩田さんと険悪になって、公演をめちゃくちゃにしようって思ったらしい」
 
 平井はその話を聞いて、急に変なことを思い始めた。高校の教室の廊下に落ちていたりする、誰かの私物。それがシャーペンだとか消しゴムだったりした時は拾えたが、それが誰かのハンカチだったり、くつ下だったりした時は、薄気味悪くて拾えなかった。生活臭の強いものは触れない。それと同じことで、いったん生活臭を感じる裏側のことを知ってしまった青燐光だとか盈科塾のワークショップだとかって、もう自分の手に負えないものになってしまったと。今まですごく輝いて見えていたものが、即座に薄汚れていると感じた時、もうそこへ踏み込むことができなくなっちゃうんだと――。平井はひどく悲しい気持ちになった。
 
 稲葉と小高がワークショップの件で喧嘩し、その小高が恩田に近づいて、二人は深い関係になった。恩田の恋人だった立花がそれを知って怒り、公演をめちゃくちゃにしてやろうと。現に、あの公演はめちゃくちゃだったのかもしれない。よくは覚えていないが…。西山の声が、電話の向こうでこわばっている。
「たぶん、公演打てなくなって、青燐光のメンバーも脱退するだろうし、終わりなんちゃう? 稲葉さんたちの方も、うまくいかなくなると思うよ。演劇ワークショップはもう無理かもな。それでだよ、おい」
 おい、とはなんだと平井は思った。
「それでだよ、おい。俺たち、劇団作って演劇やらん? キドがやろうっつってさ、ヒライさんにも話してほしいっていわれたんよ。劇団作りましょうって。おまえ、どうする?」
 
 そんな急転直下の話をされて、平井はまごついた。だが、主旨は理解していた。俺たちも、新しく演劇をやろう、という意味だ。キドくんならしっかりしてるから、集めたメンバーのリーダーになって、やりたい演劇ができるんじゃないだろうかと思った。いい話かもしれない。いわば、クリームソーダの味だった。宇宙だった。果てしなく広がっている、宇宙の話だった。平井は急にざわざわと体が興奮してきた。
「そうだよな、俺たち、いまやんなきゃダメかもな」
「そうすよ。ヒライさん」
 
 その話を聞いた日の真夜中、平井は夢を見た。宇宙貨物船ノストロモに現れたベアーのエイリアン。逃げ惑う乗組員たちの恐怖。自分も乗組員の一人で、ベアーに追い込まれ、貨物船からの脱出に失敗し、ベアーのエイリアンに喰われる夢…。目が覚めたら汗びっしょりだった。
 
 翌日の夜、なんと木戸から電話がかかってきた。初めて木戸からの電話だった。平井は正直、驚いた。西山先輩から、平井さんの家の電話番号を聞いたという。
 話は簡単なことだった。平井さんにも劇団結成に参加してほしいということ。メンバーになって役者をやってほしいということ。それからもう一つ、すごく大事な用件だった。劇団の名は、もう決めたのだという。木戸ははっきりと、「カイキエン」といった。平井は聞き返した。再び「カイキエン」といった。「怪氣円」と書くらしい。西山も裏方で手伝うという話は、あとで思い出したのだった。

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この物語はフィクションであり、
登場する人物・団体等の名称はすべて架空のものです