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CHAPTER 14

第14章(最終章)

「その時来てた演劇部の顧問は、あのマヤコフスキーの朗読、すごくよかったって褒めてくれたんスよ」
 そこは西辺城市駅に程近い老朽化した商業ビルの3階で、ロシアン料理のレストランで「カチューシャ」といった。ガラス窓に少し寄りかかる北橋は、チャコールグレーのモックネックを着ていて黒いフレームのメガネをかけ、下はジーンズといった服装で、窓の外の寂れた街並みを眺めているようだった。あちらこちらの店のシャッターはしまっており、休業日なのか閉店してしまっているのか判然としないほど、かつての駅前の活気は失われてしまっていた。
 
 北橋はおもむろにスマホをポケットから取り出し、愛娘の画像を平井に見せ、笑顔を浮かべた。
「舞弥(まや)っていいます。そうなんです、あの時のマヤコフスキーの詩がずっと忘れられなくて、それでマヤにしようって。4歳になったばかり」
「その画像、浅草で撮ったんだ? 花やしきのメリーゴーラウンドでしょ?」
「そうです。自分が若い頃は、花やしきなんて全然行ったことなかったけど」
 そういって北橋は、愛娘の画像をチラ見しながら、全身の力が抜けていくような開放感に浸っていた。平井はたちまち重い口調になって北橋と話を続けた。
「最近自分が使ってた昔のケータイが押し入れから出てきてね、5年前に木戸と久しぶりに会ったことを思い出したんだ。木戸ともあの頃の怪氣円の話で盛り上がったんだけどね。ケータイが見つかった時に、オレの彼女に昔演劇やってた話して驚かれたんだけど、その後はふーんって感じで。あんまり、俺が熱っぽく喋るから、ドン引きされた感じでね」
 北橋はテーブルから身を乗り出すような姿勢で、平井の顔を真剣に見つめていた。
「ハハハ。まあ、演劇やってない人は、あんま興味ないのかも…ですね。あのう、木戸のいる千城台って、こっから電車だと、ずいぶん遠いッスよね?」
「うん、まあ、けっこう遠いよな。今も木戸が、千城台に住んでるかどうかはわかんないけど」
「俺も十何年木戸と会ってないスよ。連絡先わかりますか?」
「いや、わかんない。ケータイ替えた時に、全部アドレス消しちゃったし」
「じゃあ、無理ッスよねえ」
 
 向かいのビルの屋上にカラスが止まっていた。それを平井はしばらく眺めていた。窓からの日光が熱く感じられた。向かいのビルの下では、クリーニング屋の店先から、頭の天辺の地肌が見える白髪交じりの年老いた女の人が、とぼとぼと路上に歩きだしていて、ゆっくりとした歩幅で角を曲がり、姿は見えなくなった。北橋はコップの水をガブッと飲んだ。飲み終えて一息ついた後、平井の顔に目をやった。
「平井さん、なんか今日は久しぶりに会って、いろいろ昔話しましたよね。ところで俺と急に会おうと思ったのは、なんでですか?」
 平井は少し考えた様子で、どぎまぎして落ち着かなくなった。
「いや、あのね、えーと、昔さ、ジョン恩田っていう舞踏やってた人知ってるよね? 青燐光(せいりんこう)にいた人なんだけど」
「ジョン恩田? ああ、名前は知ってますよ。なんか昔、アオイの公園で、青燐光がすんごいパフォーマンスやったっていうのを、木戸から聞いたことありましたよ。その時出てたのが、恩田さんですよね? あの公園ってほら、俺たちが初めて集まって、発声練習とかしたじゃないスか」
 
「そうそう、やったよな。あそこで、青燐光の野外公演があって、オレとかニシとか木戸が見に行ったんだけどさ。なんていうか恩田さん、あの公演でとんでもないことになって。青燐光はあれでほとんど終わっちゃって、その後、恩田さんは、現代舞踏学ぶためにドイツに留学して、それからニューヨークに移って、ブロードウェイのオフオフなんかで、舞踏のパフォーマンスをアルバイトしながらやってたらしいんだよ。ずっと向こうで住んでてね。そんで久しぶりに帰ってきて来月、市内のヨガ教室で、恩田さんの引退記念のイベントがあるんだよ。あ、これ、フライヤーね。『ピクシーレッド』っていう…。こういう感じのイベントなんだけどね」
「ほう。なんか凄い怖い感じスよね」
「うん。舞踏家だからね。あと当日、青燐光時代の写真を展示したりとか、本人のトークタイムなんかもあるらしいんだけど、最後ってことで地元なんで特別に、向こうのオフオフで人気だった、創作舞踏の『ピクシーレッド』をダイジェスト・ヴァージョンでやるんだって。それオレ、見たくてさ。恩田さんの舞踏見たの、あれが最初で最後だったし、ニューヨークのブロードウェイなんて行きたくても行けなかったじゃん。せっかくだから最後に、恩田さんのパフォーマンス、もう一度見ておきたいっていうか。そんで、来月、北橋もよかったら行かないかなと思って」
 
 北橋は少し興奮した口調で、
「へえ、なんか舞踏って面白そうッスね。全然見たこと無いッス。よく昔、暗黒舞踏とかいって、ヤバい感じの踊り、なんかどっかで知ってたけど、どうなんスかねえ、現代舞踏ってよくわかんないけど。単純に、恩田さんのパフォーマンスってどんな感じなのか興味ありますね。木戸から話聞いただけなんで。そっか、もう引退しちゃうんスね。え、いつなんスか?」
「15日の、日曜日なんだよねえ」
「ああ、15日か…。えーと、たぶん俺、その頃、こっちいないッスね。行きたいんだけど。あのう、仕事先の出向で、来月、名古屋行っちゃうんで。秋くらいにならないと、こっち戻ってこないんスよね」
 
「そっかあ。それじゃ、無理だよなあ」
「そうスね。申し訳ないッス。平井さんは、舞踏とかって、よく見たりするんスか?」
「いや、オレもそんなに普段関心あるわけじゃないよ。だけど、恩田さんのパフォーマンスは1回しか見てないけどさ、なんかすごい迫力があって。まあ、ほら、青燐光は、偶然見に行った縁みたいなもんだよね。あの時見てなかったら、舞踏なんて興味湧かなかったと思う」
「ほう」
「恩田さんのはもう、あの人のパフォーマンスって、妙に惹きつけられるものがあるっていうんかな。オレ、舞踏のことは全然素人だけどね、なんていうか、あの時、アオイの公園の原っぱでさ、真昼の人前でさ、恩田さん素っ裸になっててさ、そんで舞踏って、ふつうの踊りとぜんぜん迫力が違うんだよ。流れとか、時間とか、見え方とかも違うし。それがいいっていうか。ちょっとまあ、物悲しい部分も背負ってる感じがしてね。これ見て知ったんだけど、恩田さんはニューヨークじゃ、現代舞踏の世界でけっこう有名だったらしいよね」
 北橋と一緒にジョン恩田の最後のパフォーマンスを見ることができたなら、そこで何かが弾け、北橋にもとてつもない影響力がふりかかって喚起され、全く新しい何かが動き始めるんじゃないか…。平井は、そういったファンタジックな期待感が脳裏にずっとあって、今日、北橋と会えることを楽しみにしていたのだ。北橋なら、なにかを感づいてくれるんじゃないか…。だが、その期待は、見事に打ち砕かれた。平井は一気に現実に引き戻され、暗い気持ちになった。
「なんか最近、ベアーが出てくる夢をよく見るんだよね」
「は? ベアー?」
「無くなっちゃったザナドゥとか、廃屋になった文化センターの裏手なんかに、ベアーがちょこんと座ってる夢」
「ハハ。変な夢ッスね」
 自分以外にしか、いや、自分でも理解できないもどかしいモヤモヤとしたものと対峙し、ようやく一歩踏み出せるのではないかというこの日の期待は、もはや失われつつあるが、それでもなんとか、自分自身の制御できない感情から、ようやく呪縛が解かれたような気持ちになり、一息入れてから平井はしゃべりだした。
 
「そういえば北橋はさ、どういう理由で演劇始めたんだっけ?」
 心の内の深いところに押し込めていた記憶を、まるでブラックボックスの中から掴み取るような感じで北橋は、多少集中力が強いられる狭苦しさを感じながらも、こう答えた。
「兄貴はバレエやってて、そういうっぽいセンスはあったけど、俺はからきし、その手の才能が無い。ハハ。高校のクラスメイトだった木戸が、入学してすぐに演劇部に入ったんで、俺もなんか入ってみようかと思って。それだけの理由なんスよね。演劇なんて、全然やったことなかったけど、まあまあ、怪氣円は楽しかったッスよ。怪氣円に誘ってくれたのも木戸だったし、木戸が劇団のイメージ戦略作り上げたわけだし。まあ、腐れ縁みたいなもんスよね、あいつとは」
 平井も何か、ぽつぽつとした記憶の断片が蘇ってきた感じがして、それらを一つの線上に並べてみようという恣意に駆られた。
「あのさ、こんなこと訊いていいのかどうかわかんないけど、たしか北橋のお父さんは、“西のバラ劇場”のストリップショーの照明やってたんじゃなかったっけ?」
 
 平井の快活な質問に対して、北橋もはっきりとした口調で答えた。
「そうです。やってました。もともと長距離の運ちゃんやってたんスよ、オヤジ。で、キツイからっていうんで辞めて、なんか知り合いから仕事口きいてもらって、バラ劇の照明係やるっていうことになって。それはえーと、俺が中1の時ッスよ。もうその頃オヤジ離婚してて、ほとんど家に居なかったッス。中1の期末試験の前の日に、オヤジからこっそり呼ばれたことがあって、バラ劇の楽屋入ったことありますよ。ハハ、ほんとは未成年者立入禁止のはずなんだけど。学校にもバレなくてよかった。楽屋入ったら、ダンサーの女の子たちが汗だくになってて、おっぱい出したまま扇風機のカゼずっと当たってたの、いまだに鮮明に覚えてますよ。匂いとかもすごくて、強烈でした」
「すごい裏の世界だねえ。へえ、ストリップ劇場の楽屋か。踊り子さんばっかで、色っぽい雰囲気なんでしょ?」
「ただ狭くて汚いだけッスよ。でも、ダンサーの女の子たちは、化粧落としたら、わりかし普通の子っていうか、まじめな子が多い感じがしましたね。中1の時の印象だから、あんま当てにならないスけど」
「ああ、そっか、それで思い出した。ほら、あの時、木戸がね…」
「ああ、あのことッスか? まあ、俺が悪いっていえば悪いんですけど」
 
 店内に飾られていた入れ子人形のマトリョーシカの胴体には、紅い花の絵がちりばめられていて、平井はそれを見て素直に可愛いと思った。横に貼られていた紙には、「ロシアの民芸品マトリョーシカの工房タザイ…人形製作の一日体験できます」と記してあった。
 やや興奮した平井は、うまい具合にろれつが回って、
「話変わるけどさ、そうそう、あれいつだったっけ? えーと、ニシの事件のちょっと前だったか? ニシと木戸と北橋の3人で、めっちゃ話が盛り上がってて、オレ全然その話の輪に入れなかったこと、あったじゃん」
「えー、それ、なんでしたっけ? あ、ああ! あれか。ハハ、スティーヴ・ウィンウッドの話でしょ?」
「え、そうなん?」
「たぶんそうです。スティーヴ・ウィンウッド。俺が六本木のシネヴィヴァンのレイトショーで、『茂みの中の欲望』っていう変な映画見たよって話したら、西山さんが首突っ込んできて、それ知ってる知ってるって。西山さん、そんなヤバい映画おまえよく見たなあ、ふつう演劇人は、ライザ・ミネリの『ステッピング・アウト』見るもんだろ、北橋おまえ、あんなエロっちい『茂み』のアレを見ちゃダメだろっていって、笑うんです」
「へえ、そんな映画見たんだ」
「はい。夜遅く、こっそりと。でも、トラフィックっていうバンドの主題歌が、サイケですごくかっこよかったんスよ。トラフィックって、スティーヴ・ウィンウッドの若い頃のバンドだろって西山さんが話の腰を折って、スティーヴ・ウィンウッドっていったら、木戸の兄ちゃんだよな、ファンなんだよな、木戸の兄ちゃんはって」
「そうなん?」
「はい。で、西山さんが、木戸の兄ちゃんの名前、なんだっけ? っていって、俺が、“善照”(よしてる)ですっていったら、木戸がちょっとムッとした顔になって、余計なこというなって。そんで西山さんが、またベラベラ喋りだして、おい、木戸、俺が木戸んち行ったの、おまえが高3の時だよなって。その後、西山さん、善照さんの話を延々しちゃって…」
「まったく、あいつな」
 
「西山さんは、こんなこというんス。木戸んちの兄ちゃんはロンドンに留学してて、プリンス・エドワード・シアターでミュージカル『チェス』を見たんだよって。そういうことは西山さん、異常に覚えがいいっていうか詳しいんスよね。で、ロンドンじゃホントは、ミュージカルの『キャッツ』とか『オペラ座の怪人』が見たかったのに、チケットが完売してて、木戸んちの兄ちゃんは見れなかったんだぞって。そんで、チケットが余ってた『チェス』。でも『チェス』見ても、ストーリーがいまいちよくわかんなくて腹立ったんだよ、ヨシテルさんはって」
「なんだよ、そりゃ」
「本場のミュージカル見れたんだから、ええやんか、羨ましいなあヨシテルさんはって、めっちゃうるさい」
「たしかにあいつ、ミュージカル好きだったもんな」
「西山さんが木戸の家の2階に駆け上がったら、でっかいポスターが貼られてて、それがスティーヴ・ウィンウッドだったっていうんスよ。その時、善照さんがスティーヴ・ウィンウッドのファンなんだって、初めて知ったって。前の年のハマで、スティーヴ・ウィンウッドが来日公演やったのを、善照さんは見に行ったらしいんスよ。そんで西山さん、おい、き、き、き、木戸、弟のおまえは知らんだろうけど、ヨ、ヨ、ヨシテルさんがスティーヴ・ウィンウッド好きだったら、絶対トラフィックの曲の出る映画くらい見てるだろ、『茂み』をな、って」
「うざいな、あいつは」
「西山さん、どんどん木戸に食ってかかって、なに? ヨシテルさんの彼女って、プーク人形劇アカデミーの卒業生だったん? 知らんかった知らんかった、それじゃめ、め、めっちゃヤバいな、プ、プ、プ、プークの彼女がいるヨシテルさんが、こっそり『茂み』見てたのって、ヤバいんちゃう? まさか、人形劇で『茂み』上演してねえだろうなって、西山さん大笑いして、俺と木戸もその笑い声に負けて、腹抱えて笑い転げました」
「おい、そんな話で盛り上がってたんか」
「ハハハ、はい、そうスね。ハハ」
 
 一つの走馬灯が、別の走馬灯を動かし始めたのを、平井はふと感じた。北橋の笑った表情が、緩やかに落ち着いた表情におさまりかけた時、平井は口を開いた。
「その後、あんなニシの事件が発覚して、もともとちっぽけだったかもしれないけど、オレたちの夢が潰えて、その後だったよな、木戸がなんだか知らないけど、ストリップ劇場からコントのオファーが来たんで、やりたいっていって、オレを誘ったの」
「はい、うちのオヤジからの話でした」
「オレ、よく事情知らなかったんだ。ストリップ劇場のオファーの話を、木戸から電話で聞いた時、ムッとしたんだ。なんでオレたちが、あんなニシの事件に巻き込まれたからって、ちゃんとした演劇続けなきゃいけない時に、ストリップ劇場で余興みたいなことしなきゃいけないんだって。木戸と大喧嘩になったんだよなあ。木戸は絶対に出ます、オレは絶対に出ないつって、意見が割れて」
「あのときは申し訳なかったッス。父のバラ劇が、ちょうどお客さん減ってて、ショーのテコ入れしなきゃいけなくなって。踊りの合間に、芸人さんのコント入れようかっていう話になって。それならちょうどいい、うちの息子がやってる劇団に若い子いるから、息子に訊いて頼んでみようっていって、オヤジと舞台監督の人と話が半分まとまっちゃってて。ほんとうは俺が、ピンでバラ劇に出れば済んだんスよね。でも木戸が、ギャラ出してもらえるんなら、俺と平井さんで出た方が得だっていって」
 
 平井は暗い表情を浮かべながら、落ち着いた口調で、
「あの時、オレは結局その話断って、アタマにきて怪氣円辞めたわけだ。谷山からも、泣きながら説得されたんだけど、結局辞めちゃった。後悔はしてないよ、今振り返っても。まあ、あの時ニシの事件で、なにもかもズタズタになって、どっちみち、劇団の先は無いだろうって思ってたから」
「……。バラ劇の仕事は、木戸と俺が行ってコントやりましたよ」
「あ、そうなんだ…」
「本番の数日前からリハーサルやることになって、何日間かバラ劇に通って参加しましたね。劇場の舞監とオヤジが照明のことでモメてた時も、ずっと見てましたよ、木戸は」
 
「モメた? なに、それどういうこと?」
「そんな大したことじゃないんスけどね。何回かのリハーサルの時、オヤジは、踊り子さんのキメのパフォーマンスの時の照明にこだわって、踊り子さんに当ててるピンスポをオフにして、ボーダーとフットでNo.12のピンクのカラーフィルターで染め上げるんだから、少しそれを強くしましょうよっていってるのに、舞監が、ピンスポは当てるんだから、フットは弱めで構わんだろって対立して。それでオヤジもカッとなって、全部見えればいいってもんじゃねえだろって、喧嘩になった」
「木戸もその時、現場にいたんだ?」
「そうスね。あのう、さっきの『茂みの中の欲望』じゃないですけど、ストリップのショーって、ぶっちゃけた話、踊り子さんにはMulberry Bushが無いんです。わかりますか? あのう、変な喩えですいません。さっきの映画のタイトルでいうと、原題は、“Here We Go Round The Mulberry Bush”っていうんスよ。でもそれを直訳しちゃうと、なんか味気ないスよね? で、“欲望”っていうのをわざわざ付け足した。それが、『茂みの中の欲望』っていう邦題です。でも、ストリップのショーには、そもそもMulberry Bushが無いから、踊りのしなやかさで裸を見せなきゃいけないんスよ。そうなると、お客さんの方としては、もう素っ裸よりも、踊り子の心意気にのめり込んでいく。ストリップって、実はそういうもんなんスよ。だから、キメで股を開いてる瞬間に、そこにピンスポ当てちゃうと、踊り子が可哀想だって。オヤジはよくそういうことをいってました。だから、なるべくキメのパフォーマンスの時は、ボーダーとフットで濃く色を染め上げて、場の相乗効果を狙うんだって」
「染め上げるっていうのは?」
「それは、踊り子さんの体を、ピンクとか赤系のフィルターを使ったボーダーとフットのライトで、下からの光で染めてあげる。そうすると、裸の生々しさじゃなくて、踊りのしなやかさが引き立つ。そういう感じの照明の仕方を、オヤジは求めてたらしいんスよ」
 
 平井は一瞬、テーブルに置かれていた食べかけのボルシチの皿に指が引っかかって、スープを自分の膝にこぼしてしまった。
「平井さん、大丈夫すか?」
「ああ、大丈夫。平気平気。手が滑った」
 膝の所に赤黒い染みができて、やがて滲んで薄紅色に変わった。濁った水たまりは、こうやって花の色に変わっていくものなのかと、平井は直観した。感じるものがあった。
 感覚が写実を変えるのか。
 今まで考えたこともない別の世界に、ようやく歩きついたとも思った。
 
「平井さん、あの時、やっぱり辞めてよかったと思うんスよ。こういっちゃなんだけど、あの後、散々でしたよ、怪氣円は」
 北橋の話はこうだった。
 その後2年くらいお客さんがほとんど来なかった。公演には、だいたい10人くらいしか入らなかった。そのうちザナドゥも閉館になるという噂が出て、そこではもう公演が打てないようになり、仕方なく、文化センターを利用して公演を打った。しかし、そこももう97年の4月に閉館になるという話が出て、その年の3月にぎりぎり最後の公演を打った。
 最後は、『ムジナと給食のコッペパン』。バタークリーム入りコッペパン好きのムジナが、学校中のコッペパンを食い荒らして大騒動。でも最後に、ムジナが子どもたちの夢を叶えてくれるということだったが、子どもたちの夢は、ムジナが考えるよりももっと壮大なものだった。それは、ムジナでさえ叶えられない夢。そういうストーリーだったのだが、見に来てくれたお客さんは、たった7人だけ。
「ベケットの『ゴドーを待ちながら』じゃないスけど、俺達にとってゴドーとは、お客さんそれ自体でした。待っても待っても、やってこないっていう。まあ結局、それで閉じました。怪氣円は。ハハハ」
 
 サラリーマンや学生らがあちらこちらと駅周辺に目につきはじめた夕刻、平井と北橋は、レストランの会計を済ませた後、1階の中古CDショップに立ち寄って、おもむろに店内を見て回った。北橋が、懐かしいサンズ・オブ・ザ・デザートのCDを見つけて買ったこと以外に、二人は特に会話もなく、店を出た。
 ちょうど、フジの木の広場がある、神社の境内に差し掛かった時、北橋がようやく口を開いた。
「平井さん、レイモンド・ルーセルって人知ってますか?」
 平井はわからず、首を横に振った。
「俺にいわせりゃ、ルーセルって、フランスの演劇史にかかわるシュルレアリスムの巨匠なんスけどね。そのルーセルが、いくつか戯曲を書いてて、俺、思うんスよ。彼は、ごくわずかな作品を残しただけなんだけど、それでも、シュルレアリスムの先駆者だと。そういうことすら理解されていなかったから逆に、彼は偉大なんだと。だから、変な話、怪氣円が赤佐村のムジナの昔話やるってなった時、ゾクゾクしたんスよ。すごくルーセルっぽいから。そういうルーセルっぽい戯曲を、木戸が書いたりしてたから。で、全体的にいえば、俺達って、地元の演劇人から全く評価されてなかったじゃないスか。お客さんも少なかったし。でも、今となっては、それでいいんだって。誰にも評価されてないけど、俺自身は、満足してるんスよね。演劇がヘボだっただけ、といわれれば、そうなんスけどね」
 
 平井は、自分でもどこを見ているのかわからないくらいに視線の先の物体がボヤけてしまっていて、奇妙な感覚に陥った。自分は何も考えずに途中で投げ出して辞めてしまった、といおうとしたが、口ごもっていえなかった。ほとんど意味のない空疎な言葉だと感じた。
「オレがそういうの理解してなくて、怪氣円をバカみたいに台無しにしちゃってたのかもな」
 北橋は平井の顔を見て、
「いや、そんなことないスよ。役者の上でも、平井さんと木戸が軸でしたから。あの頃はそれなりに楽しかったッスよ」
 
 すっかりあたりが暗くなって、空中では、ところどころ黒影に見えるコウモリが飛び交っていた。車の往来も人影も無い、寂しい小道の角を曲がったあたりで、北橋がポケットからスマホを取り出した。
「なんだ、ヨメからのLINEスね。娘がグズってるらしいんで、これで帰ります。あのう、平井さん、またなんかの時に連絡ください。じゃあ、今日はどうも、久しぶりに面白かったです。どうかお元気で。お疲れ様でした」
 
 平井は北橋の後ろ姿に手を振り、少し歩きかけて、自分のスマホを覗き込んだ。
 AKB48の「ハロウィン・ナイト」の動画が少し映った。
 ブラウザの画面を切り替えると、「ジョン恩田メモリアルイベント」というページが映って、「ピクシーレッド」「エルフダート」「エルフショック」という演題の解説テクストをしばし眺めた。
 そのうちもう、それ以上はボヤけてしまって読めなかった。平井は、なんとか字を追った。「アラン…諸島…イニシュモア島…南岸…ドン・エンガス…断崖…」。そうなんだよ、そうなんだよね、確か迷い込んだ墓地で、男がドルイドの矢でしびれて死んでしまうストーリーだったと、この前これを読んでおいたんだ。来月は、行くだろうか、行けるだろうか。エルフダート。エルフダート…。オレにはさ、オレには…。
 その先、どこをどう歩いたのか、平井は足を引きずりながら、涙を浮かべて、夜の闇の中に消えていった。
 
 再び、彼らが何年か先に出会うということはなかった。町も静かに佇まいを変え、やがて草木の中に深く沈み込んだ。全てが眠るようにして、形を変えていった。ここがかつて演劇の盛んな町だったとは、誰も信じてはいない。信じる人は、誰もいない。

《完》
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登場する人物・団体等の名称はすべて架空のものです