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CHAPTER 5

第5章

 よく晴れた月曜日、平井は9階の教室で先週と同じ席に座り、伊沢の精美堂の広告とコマーシャルに関する講義を聴講した。それ以降の講義も、先週とほぼ同じ日程で行われ、午後の3時半過ぎに学校を出た。
 帰りの電車で平井は江古田駅に降り、レコードショップのルイードに立ち寄った。入荷したパープル・ヘルメッツのCDを買い、再び池袋線に乗り、地元の西辺城駅で降りた。駅構内では、近くの店の揚げたてのコロッケの匂いが漂っていた。
 
 駅前にあるレンタルビデオ店に入り、店内をゆっくりと歩き回った。奥に、名画のコーナーがあった。平井は、“女の美弥子”もとい“女の都”というタイトルのビデオを探した。
 あったのは、『女だけの都』というビデオで、参照用のジャケットにフランソワズ・ロゼイらしき女優の顔が載っていたのでこれだと思った。そこに、俳優の名が“フランソワズ・ロゼイ”と記されていたので、この映画に間違いないと確信した。監督の名は、ジャック・フェデー。1935年のフランス映画で、女優ロゼイはフェデー夫人だともあった。平井はちらりと壁に貼られた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のポスターのマイケル・J・フォックスを見ながらレジへ向かい、ビデオを借り、店を出た。
 
 その日の夜、平井はテレビの「歌のトップテン」を観た後、ビデオデッキに借りてきたテープを差し込み、『女だけの都』のビデオを観た。冒頭で“名画のラインナップ”の宣伝が続いて鬱陶しかったので、早送りでそれを飛ばし、本編の頭のところで等倍再生に戻した。
 
 ロゼイという人は想像していたよりも体格が張って、どこかはっちゃけていると思った。男勝りの面も感じられた。
 17世紀のフランドルという地域に、スペインのオリバーレス公率いる軍隊が押し寄せる。どうしたものかと困惑する町長の態度に対し、妻のコルネリアは強気だ。このコルネリアの役を演じているのがロゼイなのだが、コミカルなストーリーは常に華奢なロゼイの品格によって保たれ、勇猛果敢かつ意気揚々とした女たちの手練手管によって町の騒動は収まり、大団円を迎える。平井はあっという間に観終わってしまったと感じた。
 
 平井は自分の部屋に戻ると、ロゼイの本を取り出して開いた。今の『女だけの都』の黒い派手な衣装を着たロゼイの写真が載っていた。ジャック・フェデーの肖像写真もあったが、なんとなく粘土細工でこしらえた顔っぽいというか、その皺の寄り方が、適度に照明の影となっていて不気味さが感じられ、冷たい印象を受けた。ともかく文章を読みだしたが、「ニュー・フェイスへの忠告」という節で、以下のような事柄が書いてあって平井は目を留めた。
 
(a) 来るべき闘いの合間、肉體的に、從つて精神的にも、あなたを良好な状態に保つておいて呉れるかかりつけの醫者。
(b) 咽喉の醫者、勉強をはじめる前と勉強中、喉、鼻、聲帯が良好な状態にあるかどうかを検査してくれる、音聲のための醫者。
(c) すぐれた齒醫者、微笑は一點非の打ちどころのないものでなければならない。
 
 こんなことも書いてあった。
《トオキイは眼に訴えると同時に、又耳にも訴える藝術である。それを忘れないこと。そのトオキイのために、表面努力しているように見えない「口先だけ」の發音法、陰翳があり、臺本に忠實で、しかもその中にある困難さを征服し得るような發音法を用意せねばならぬ》
 
 カレル博士の本の中の言葉、
《「子供のころには、私たちは自分の中に幾人もの未發現の人間を蔵しており、それが次第に一人ずつ死んで行くのである。」すべての老人は自分の中で、或いは自分がそれになれたかも知れないいろんな人間の行列にとりまかれているのである。恐らく、映畫の中に慰めと喜びと逃避とを私に見出させてくれるものは、幾つもの人生を生きるというこの幻想なのであろう》
 
 平井はこれらの文章をノートに書き留めた。しかし、あえて書き留めなかった以下の文言も、平井の頭から離れることはなかった。それは、巻末に記された附録の、ジャック・フェデーによるロゼイ評の中の文言であった。
 
《しばしば、映畫「旅する人々」の上映中、フランソワズ・ロゼイがその虎の曲藝を見せるために檻の中に本當に入る瞬間、私は、観客たちが、肱を押し合いながら、「おお、やつぱり、このシネマもトリックだわ」と囁いているのを聞いたものだった》
 
 電話が鳴った。平井が降りていって受話器を取ると、相手は西山だった。
「昨日はやっぱ行けなくてごめん。すき焼きは美味かったけどな」
「なんだ、またそんな話かよ。いいんだよ別に」
「いや、昨日聞くの忘れたんだけどさ、ワークショップどうだったん?」
「ワークショップ?」
「おお、盈科塾のワークショップ」
「んまあ、どうだろうね」
「花屋の小高さん、来てた?」
「来てたよ」
「そんで、なにやったん?」
「なにって、んまあ、遊びみたいな。フルーツバスケットだけど」
「フ、フ、フ、フルーツバスケット?」
「そう」
「なんでそんなんやったん?」
「さあわからん。でもまあ、楽しいことは楽しかったけど」
「なんだよそれ。演劇のワークショップでフルーツバスケットやるようじゃ、稲葉さんもすっかり落ちぶれたな。余興をやるようになるとはね。ス、ス、スタなんとかの演技論で、高校演劇の女子のあいだじゃ、知られた人だったんだけどな」
「よくわかんねえけど、まあ、どうなんだろうね」
「次も行くん?」
「次? あ、ああ、行くっつうか、参加しないとダメ、みたいなことになっちゃった」
「なにやるん?」
「うーん、たぶん軽い劇とか、やるんじゃない? なんか、イス使った劇やるらしいけど」
「イス?」
「そう、イス」
「ふーん、そうなんだ。どういう意図でそんなことやるんだか、よくわかんねえけど、」
「俺も初めてだから、よくわかんない」
「そんでさ、フルーツバスケットって、渋谷の2323と関係ねーの?」
「なに2323って?」
「あんじゃん、渋谷に。2323って。マルイのとこで、白っぽい店。ジュース売ってる」
「それ、ぜんぜん関係ないじゃん」
「そっか」
「ふふ。あーいまさ、ロゼイの本読んでて、たぶん今日中に読み終わると思うんで、明日返すよ」
「早えな。明日? どこで会う?」
「新宿でいいんじゃん? 南口の改札んとこで、5時とか」
「5時ね、いいよ、わかった。じゃあ明日夕方な」
「おっけい」
「じゃあ、ということで」
「はいおやすみ」
「おお」
 平井は冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、2階に戻って深夜の2時すぎまで、ロゼイの本を読み耽った。
 
 翌夕の5時15分すぎ、少し汗を掻いた平井はくたびれて、下着の湿った不快感を覚えながら、新宿駅の南口で立っていると、改札の向こうから西山の姿が見えた。「よう」といって近づいてきた彼に、平井はバッグから本を取り出し、それを渡した。「ニシ、あんがと」。
 
 ちょっと、ふあのチケット売り場行きたいといって、西山はスタスタと歩きだした。平井はその後ろを付いていき、京王百貨店のエスカレーターで7階のフロアにたどり着いた。
 そのフロアのチケットふあのスポットでは、長い黒髪の若い女性がチケットの発行手配の業務をしていた。西山は、5月2日に渋谷公会堂でやるG.D.FLICKERSのコンサートのチケットを2枚買った。「やったね。買えねえだろうと思ってたけど、よかった、買えたよ」。
 降りるエスカレーターで西山は喋りだした。ノンコと二人で観に行くのだと。小谷納子といって、高校の美術部の後輩らしい。付き合ってるという。この前、唯ちゃんのコンサートがあって行きたかったが、ノンコが神奈川県民ホールだと帰りが遅くなるから無理っていうから、G.D.FLICKERS行こうっていうことになって、という話。
「ああ、ヒライ、そういえばさ、ふあの雑誌でさ、えっと、なんつったっけ、ゲ、ゲ、あ、劇団とろぴかるか。それの広告見たよ。おまえが前にいってた、先輩の松本麗紋さんが載ってるやつ」
「ああ、あれね」
 西山の、「麗紋さんて、美形やな」という返事が、ひどくいやらしく聞こえた。
 
 新宿駅構内はひどく混雑して暑かった。平井の額から汗が滴り落ちた。小田急百貨店の12階に上がり、三省堂書店でしばし二人は立ち読みした。ずらりと並んだ漫画本のコーナーの一角で、西山の動きが完全に止まった。ふいに彼が、漫画を読みながらぼそりと喋った。
「ヒライ、そういや、ビデオ借りたん? 女の都」
「借りてみたよ。あのさ、あれ、女の都じゃなくて、女だけの都つうの」
「ああ、そうなん。そんで、どうだったん? 面白かった?」
「面白かったかっていうと、昔の映画だからさ、古っぽいところあるけど、まあでもロゼイっていう人は、演技上手いよね」
「そうなん?」
「なんていうか、ぜんぶ整理整頓されてる演技っていうか、無駄がないし、怒ったり笑ったりがきちっとメリハリある感じかな」
「じゃあ、勉強になったんじゃん?」
「まあね」
 平井は急にジャック・フェデーの話がしたくなったと思ったが、次の瞬間にはその気を失った。馬鹿げたミニスカートの女の子が、泣き顔で涙を垂らし、開いた股から白い下着を見せてバタついた場面を読んでいる無表情の西山に、いま、映画だとか演技の話をすべきではないと悟ったのだった。
 
 東口を出て、平井と西山は横一列になって歩き始め、何十、何百の他人の肩とすれ違いながら、三丁目の方に向かった。夕陽が背中を差している。伊勢丹のあたりに着き、ちっぽけな喫茶店を見つけて、二人は中へ入った。
 どんと音を立てて腰を下ろした西山は、あまり疲れた様子はなかった。カバンの中をガサガサとかき回し、マールボロの箱を取り出して、煙草を吸い始めた。平井は、ウェイトレスが近づいたタイミングで生クリームとストロベリーのパンケーキとアイスコーヒーを注文し、西山はホットのココアとプディングを注文した。
 注文したものが来て、真っ赤なチェリーの乗ったプディングを西山が数十秒でたいらげると、「甘くねえな」と愚痴をこぼした。平井はそれを聞かなかったことにした。
 
 西山が突然声を荒らげた。
「やべ、バイトあるから急いで帰るわ」
 カバンを抱えて店から出ていった西山の腰付は軽妙だった。平井はすぐに店を出る気はなかった。しばしくつろいで、テーブルの脇に置いてあるフラワーギフトのチラシを眺めた。店内に中山美穂の「My Love Is All For You」が流れてきた。
 ふと、西山が座っていた椅子の方を見ると、カセットテープが一つ残っていた。さっきの西山の、カバンからこぼれ落ちたものに違いないと思った。持って帰って後で西山に渡すしかないか。
 それからしばらくしても、平井はいっこうに席を立とうとはしなかった。「My Love Is All For You」のサビの部分を思い出して、不思議となんだか、新宿の街が愛おしくなった。演劇をやりたい、と本当に思った。

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この物語はフィクションであり、
登場する人物・団体等の名称はすべて架空のものです