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CHAPTER 4

第4章

 正式名称は市民文化センター。けれども町の人達は、その市営の施設をコミュニティセンターと呼んでいて、もっと短くコミュニティとだけいう場合もあった。
 コミュニティセンターの玄関のガラスドアまで近づいていった平井は、ある貼り紙に気づいた。“本日の盈科塾演劇ワークショップは、当センターの改装工事(エントランス及び各室一部の配管等修繕)のため、10時から12時までとなります。午後のワークショップはございません。食堂は全日ご利用いただけます”。訪れていた高校生くらいの二人の女子も、この貼り紙を覗くようにして読み合っていた。
 やがて腕時計が9時45分を示し、程なくしてベージュカラーのワンピースを着た一人の女性が内側に現れ、分厚いガラスドアの施錠が解除された。高校生たちは慣れた様子ですたすたと歩いていき、ロビーにある受付へと向かった。
 平井はその後ろを追うようにして歩いていき、参加申込書に氏名や連絡先を記入して済ませた。その後、まばらに学生や大人達の参加者が何人か集まってきて、受付は少しばかり混雑し始めた。そのひとかたまりの中には、姉弟らしい中学生くらいの女の子と男の子の姿があった。女の子は黄色と白の横縞のシャツで、男の子の方は赤と紺色の縦縞のシャツを着ていてとても目立った。
 
 平井は思いがけず緊張していた。初めての盈科塾の演劇ワークショップだったが、西山が来ると思っていたので、ワークショップはそれなりに楽しめると思っていた。しかし、西山がもし来ないのだとすれば、見ず知らずの人達と数時間過ごすというのは、かなり憂鬱になるなと思った。受付を済まさないで帰ってもよかったと後悔したが、いまさら引き返すのも億劫だし、家に帰って母親にあれこれ説明するのも気怠いことだと、考えを改めた。しかし、これから数時間もの憂鬱な気分を味わうのは、ひどく嫌なことだと平井は思った。
 
 ロビー内はそれなりにガヤガヤとした雰囲気だった。そのうち、さっきのワンピースの女性がやってきて、場内の皆に向かい、「それでは始めますので会場へお入りください」と告げた。その声は張りがあるというより、どこか悲しげで息苦しい刺々しさがあると平井は直観した。平井以外の人達は、すたすたとアトラクションホールの中へ歩いていった。アトラクションホールは、木製の床張りになっている中規模スペースといったところだった。
 
 ホールには、茶褐色のパイプ椅子が円を囲むように配置してあって、その横に背の高いウェーブのかかったヘアスタイルの中年男性が、立ってこちらを凝視していた。どうやらその人が、このワークショップの指導役を務める稲葉さんだと平井は思った。案の定、すぐに挨拶が始まった。稲葉はハンドマイクを使って喋りだした。
「みなさん、こんにちはー」
 あちらこちらからそれに応えて、「こんにちはー」という声が上がった。
「えー、今日は初めてワークショップに参加してくださった方が、何人かおられるようなので、久しぶりに自己紹介させていただきます。えー、わたし、演劇ワークショップの進行と指導を担当しています、稲葉健と申します。はじめまして。えーと、この市内でエイカジュクという劇団をやってます。エイカジュクは、もう結成して20年くらいなんですけど、まあ、だいたいチェーホフとかですね、菊池寛とか、木下順二なんかの戯曲の演劇をやってまして、劇団員はいまだいたい15人ほどです。ここのコミュニティの大ホール使ったりとか、近隣の町の公会堂なんかで定期公演やったりしてますので、お芝居のポスターとか、町の中で見かけたなあとという人もいると思いますが…」
 
「ここの演劇ワークショップは、4年前に始めまして、学生さんがほとんど来ます。えっとね、スタッフは、わたし稲葉と、かれ、恩田くんと、それから原くんと、もう一人小高さんの4人です」
 ベージュカラーのワンピースを着た小高夕子が、軽くお辞儀をした。ジョン恩田は日系アメリカ人だったが、風貌はヒッピーのような薄汚れたシャツ1枚とジーンズ姿で、顔の半面は濃いヒゲで覆われていた。原光は30代だったが、20代前半と思われてもおかしくないほど若々しさがあり、終始ニヤニヤしていた。
 
「まあワークショップでいろいろ、手伝ってもらったりしてるメンバーです。よろしくお願いしまーす。えーと、このエイカジュクの演劇ワークショップではですね、演劇の、初心者向けの指導をおこなってます。まあでも、みんな学校の演劇部入ってる人多いんだよね。ただ、部活の基礎練がね、どうしても疎かになってるっていうか、聞くところ、だいたい秋とかの文化祭で劇をやったりしていると思うんですけど、試験があったりとか、他の活動で忙しかったりして、劇のね、稽古に割く時間がどうしても少なくなっちゃうんだよね。で、基礎連なんかもっとやってない。エイカジュクに入ってくる若い子とかも、基礎ができてないことが多い。あのう、部活じゃ発声とか、柔軟とか、その他いろいろな基礎連をじゅうぶんにやる暇がないんでね、基礎ができてない状態で、劇の稽古始まって、本番のステージ上がっちゃうっていう。そうするとね、声の出し方がまずいのに大声出して、声帯痛めたりとか、捻挫しちゃったりとか、演出で揉めて喧嘩しちゃったりとか、いろいろね、厄介なトラブルが出てくるんだよね。そういうのをまあ、補うつもりでやってみようかっていうんで、始めたんだけど。とくに毎回参加してもらう必要はないんでね、そこは自由なんでね、演劇ワークショップといっても、基本的に劇を作ってどっかで公演やるためにやってるわけじゃないんでね、覚えてもらったことを部活なんかのときに参考にしてもらえればいいかと。そこは気楽に楽しんでもらって。楽しみながら演劇の基礎を知ってもらえたらなあと思ってます。まあ、だいたいもう、顔なじみの参加者が多いんでね、演劇に関することでこういうことを教えてほしいとか、個人的にこういう悩みがあるんだけど、っていうのは、個別に聞いたりしてもらってもぜんぜんかまわないんでね。ま、そんなところかな。できれば、何回も参加していただけると、その分演劇のことがわかってもらえるかなあと思うんで。ぜひ、これからもワークショップよろしくお願いしまーす」
 
 精悍な感じの稲葉の喋りのトーンが、ところどころ淀んで変化するのが平井にとっては面白かった。稲葉の話は続いた。
「今日はですね、実はコミュニティの方で工事があって、午後がまるまる使えないんでね、どうしようかと思ったんだけど、まあ、たまには息抜きというか、遊びみたいなのをやってもいいかなあと思って、ちょっとみんなで、ゲームをやろうと思います。えーと、フルーツバスケットって、みんな、知ってる? やったことあるかな」
 「ありますぅ」という声変わりをしたばかりの男子の声が、平井の後ろの方から、きこえた。
「ルールをね、ワープロで打ってきたんで、ちょっといま配りますね」
 そういいながら稲葉は、小高からコピー紙の束を受け取り、それを皆に配った。
「えーと、みんなもらった?」
 参加者は全員、受け取った紙を眺めて下を向いている。
 
「フルーツのカードを用意していますんで、好きなフルーツをね、えっとね、なんだっけ、りんごと、バナナと、オレンジと、メロンか」
 小高がしゃがんで、段ボール箱に入れて置いてあった複数の工作物を手に取った。その工作物は、大きさ20センチくらいの白い厚紙でできていて、4種類のフルーツの絵がクレヨンで描かれてあり、厚紙の穴の空いたところに黄色いリボンが通されていて、首にかけることがようになっていた。どうやらそのカードは、20個くらい用意してあるらしかった。
「これ全部、昨日の夜、原くんちで小高さんと原くんが作りました。行けなくてすいませんでした。えー、4つのフルーツなんですけど、好きなフルーツの絵を選んでもらって、首にかけてください。で、その自分のフルーツを忘れないでおいてください」
 はい、じゃあ、座って――と恩田の低い声を平井は初めて聞いた。どこか日本人らしくない訛りがあると思った。平井はりんごを選んで首にかけ、目の前の椅子に座った。
 一人以外を除き、他の全員がフルーツのカードを首かけた姿で椅子に座った。メロンのカードを首にかけた中年の女性は、恥ずかしそうな表情で円の中央に立たされていた。原はその後ろに立っていたが、やはりずっとニヤニヤしていた。そういえばこの人は昔、テレビドラマの『ゆうひが丘の総理大臣』に出ていた、藤谷美和子の相手役の、男子生徒の顔に似ている、と平井は思った。稲葉の喋りが続いた。

「ルールを説明しますね。今日の参加者は16名なんですが、残念ながら、というか、これもルールなんですが、イスは、15個しかありません。いま、立ってもらってますよね。ワークショップに何度も参加してもらってるせっちゃんですけど。せっちゃんが、最初にオニになります。オニは、大きな声で、4種類のフルーツの中から一つ、叫びます。りんご! とか、バナナ! ってね。もしりんご! ってオニが叫んだら、りんごの人だけ席を移動します。バナナ! ってオニが叫んだら、バナナの人だけ移動してください。あ、オニもその時移動して椅子に座っていいんですよ。バナナ! っていってるのに、メロンの人動いたらダメです。動いて、席につけなかった人が、次のオニになります。オニになったら、フルーツを叫びます。その繰り返しです」
 
 「バナナ! で、メロンの人動いちゃったら?」と、ある男子が稲葉に質問した。稲葉は、即、「その人がオニになります」と答えた。
「りんごとメロン! って2種類いうのもオッケーですよ。で、フルーツバスケット! ってオニが叫んだら、全部のフルーツの人が動いてください」
 平井は、保育所のときにやったフルーツバスケットを思い出した。
 雨が降っている日で、施設の外に出て遊べなかったため、室内でフルーツバスケットをやった。フルーツのイラストは首掛け式のカードだったのか、それともサンバイザーのようにして頭にかぶる工作物だったのかは、思い出せなかった。
 しかしそれより、平井は、もう一つ別のことを思い出していた。それは、小学6年の時に自分で書いた、台本のタイトルだった。「あかいりんごをきいろくぬりつぶせ」。クラスのお楽しみ会で寸劇をやるはずだった当日、先生が学校を休んでしまったため、お楽しみ会は行われず、西山と二人でやるはずだった寸劇はできなかった。西山はひどく悔しがった。だが平井は、どういうわけかその寸劇の内容を全く思い出せなかった。
 
 ワークショップのフルーツバスケットは、およそ20分くらいの間に10人ほどオニになった人を出して終わった。平井も一度、椅子に座れず、オニになった。
 平井が円の中央に立ったとき、目の前の、編み下げをした女子高校生が鋭い目つきで平井の顔を見ていた。どきりとした。視線を変えると、稲葉の表情は笑っていたが、自分の顔がこわばっていくのを感じた。その女子高校生がオレンジだったので、「オレンジ!」と平井は叫んだ。
 
 彼女が素早くイスから離れて散らばっていくのが見えた。平井の呼吸は思いがけず乱れた。誰かが転んだりイスにぶつかったりと、その都度笑いが起きて参加者の表情がゆるみ、明るく和やかな時間が過ぎた。オニの発する声が小さいと、動く人も小振りな感じとなったが、バカでかい声で「メロン!」と叫ぶ40代の男性がオニだったときは、ほぼ全員が笑い転げた。「なんでそんなにメロンで声デカいの!」と稲葉は爆笑していた。ヨタヨタと笑いすぎて動けなくなっていたメロンの女子中学生がオニになったときは、全員が息つく暇もないほどぐったりとしていた。
 
「ふー、疲れたでしょ。えーとね、これでフルーツバスケットの遊びは終わりにしますけど、オニになった人で、っていうか、別にオニとかほんとは関係ないんだけど、来週のワークショップに参加できる人いる?」
 ちょっとした間があって、せっちゃんが手を挙げ、他にも2人ほど手を挙げたが、平井は迷っていた。しかしなんとなく、稲葉の眼がこちらを向いた気がしたので、勢いで結局、最後に平井は手を挙げてしまった。
「はい、ありがとうございます。じゃあその4人は必ず来週来てください。せっちゃんは呼ばなくても来るだろうけど」
「えー、そうなのぉぉ」。場内はどっと笑ったが、稲葉が間髪入れずに喋りだした。「えー、来週、フルーツバスケットのイスにちなんで、というかイスをモチーフにして、軽―い寸劇をやりたいと思います。劇の名前は、『イスとあなたとあなた』です」。
 こうして平井は、来週もワークショップに参加することになった。ワークショップ開始前のあの憂鬱感は、もうどこにもなかった。
 
 それから15分ほど休憩時間があって、再びワークショップが再開された。
 稲葉の姿は見えなかった。原が進行役となり、「提案型の発声練習の仕方」というテーマで、開始された。このワークショップは正午ちょっと前までやるということだった。
 2枚ほどのコピー紙が配られ、そこに、発声練習用の語句や文章が記されていた。まずは数名が佇立させられ、それを声に出して読まされた。進行役の原が、「通常の基礎的な発声練習に併せ、なにか別の方法で発声法を学ぶことはできないかと提案します」と告げた。
 
 受付で見かけた、朱と白の横縞のシャツの女の子が、「歩きながらとか」といった。
 原は「はい、いいですね。他には?」というと、縦縞のシャツの男の子が、「座って本を読みながら」といい、「なるほど」と原は答えた。
 こうして発声練習は、直立不動以外の方法で、動きのある中でやってみようということになり、せっちゃんが呼び出され、歩きながらそれを読んで発声練習をしてみましょうと原がいった。
 せっちゃんはぐるぐるとアトラクションホールの中を歩いて回り、「アイ、アワアメ、アオヤギ、アイアイガサ」とアの母音から始まる五十音の例題をゆっくりと大きな声で読み上げていった。「エイガ、エイセイ、エイユウ、エイエンセイ」…。
 平井はコピー紙の隅っこにある小さな字を見た。これらの五十音の例題が、水品春樹という人が書いた本の中から引用されていることを知った。
 水品春樹。せっちゃんはぐるぐると回っている。「タイヘン、タダイマ、アタタカイ。チカラ、テンチ、チョウチン」…。
 
 ワークショップはさらに進行し、最終的には全員がやって実践してみようということになり、ある者は椅子に座って読み上げたり、ある者は走りながら読んだり、ある者は寝そべって発声したりした。
 室内の時計が11時43分を指したとき、原が、「では、今日は早いですが、これくらいにしておきましょうか」といってその後簡単な挨拶をし、ワークショップは解散となった。
 縦縞のシャツの男の子が、「ねえちゃん、トイレ行ってくる」と話しているのが聞こえた。平井は、まだ正午前で早いと思ったので、1時くらいまでゆっくり食堂でおにぎりを食べてから出ようと考えた。このとき、なんとなく、西山が今日参加していなくてよかった、と思った。横縞のシャツの女の子が、小高に呼び止められた。「三島さーん、お母さんから電話」。
 平井は食堂に移動し、ただ一人ゆったりとした時間の中で、持ってきたおにぎりを2個平らげた。
 
 コミュニティセンターを出た後、駅前の通りにある書店で立ち読みをしたり、ぶらぶらとショッピングモール内を歩いたりして、靴下を3足買い、家に着いたのは夕方の6時過ぎだった。
 帰ると母親から、江古田のルイードというレコードショップから電話があって、あんたが前に注文したっていうパープルなんとかのCDが届いたよ、と告げられた。以前平井は、パープル・ヘルメッツの曲をラジオで聴いて好きになり、レコードショップでわざわざ注文しておいたのだった。
 2階へ駆け上がってバッグの中を整理していると、母親の大きな声が下からきこえた。「エクレア、スーパーで買ってきたから、あとで食べて。昔お父さんが好きだったでしょ」。平井は一瞬、懐かしい面影を思い浮かべた。
 父が病気で亡くなり、それからかれこれ、3年が経とうとしている。母子家庭であまり愚痴をこぼさない母の本音としては、一人息子が早く就職し、その分自分が楽になることを密かに期待しているのではないかと思った。エクレアごときで父親の存在をちらつかせ、早く一端の社会人になるよう催促しているとも思った。少々腹が痛くなった。
 
 平井は下に降りていってうがいをし、夕飯のチャーハンをたいらげ、それから風呂に入って、目を瞑った。そうだった。西山のことをすっかり忘れていた――。
 風呂から出て、玄関に置いてある電話で、西山が住んでるアパートの番号にかけてみた。彼の母親はスナックで忙しく働いていて、彼にはあまり寄り付かない。西山はアパートで一人暮らしなので、ある意味悠々自適だった。呼び出し音が止まり、西山が電話口に出た。
「なんだ、ヒライか」
「なんで今日来なかったん?」
「き、き、今日は、キドとノンと3人で遊んでたわ。さっきまで、すき焼き鍋つついてた」
 
 キドとノン。見知らぬ名前が出てきて、平井は少し泡を食った。だがあえて、それが誰なのか聞かなかった。
 「ふーん」といった後で、来週の演劇ワークショップに来るか訊いた。西山ははっきりとした返事はしなかった。電話のやり取りはそれくらいで終わった。
 
 キドとノン。冷蔵庫からエクレアを取り出し、無造作にそれを頬張った。中学生の時、エクレアを食べながら日曜洋画劇場の西部劇に夢中になっていた、父親の白い半袖シャツの後ろ姿を思い出した。夏だったかもしれない。カカオの香りを感じつつ、奇妙な孤独感に襲われた。

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この物語はフィクションであり、
登場する人物・団体等の名称はすべて架空のものです