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CHAPTER 9

第9章

 ジメジメとした梅雨時とは思えぬほど、青空が広がった6月中旬のある日。新宿昭和館でやくざ映画を観終わった平井は、突然忘れていたことを思い出した。
 そういえば、先月の初め、卒業した母校の高校から、郵便で茶封筒が届いていたのだった。封筒の中のわら半紙に目を通すと、確か、在学中に置き忘れていたあなたの物を返却したい旨の内容だった。
 その封筒は机の引き出しにしまい、近いうちに学校に連絡して取りに行こうと思っていたのだが、すっかりそのことを忘れていた。あれからもう1ヶ月以上になる。
 
 駅から家に着いた平井は、冷蔵庫から牛乳パックを取り出して一口ごくりと飲み、そのあと2階に駆け上がり、机の引き出しにしまわれていた封筒を手にとって、わら半紙に記されている文書に目を通した。案の定、憶えていたとおり、自分の私物を取りに行かなければならなかった。
 さっそく学校に連絡してみると、事務局の都合で明日の土曜の午後に来てほしいということになり、平井は明日学校へ行くことにした。考えてみれば、卒業以来縁のなかった母校の高校へ、再び足を踏み入れるのはなんとなく面白そうだなと、平井は軽い気持ちであった。
 
 翌日、曇り空の午後、学校に到着した平井は、校舎全体を見渡した。それは懐かしい風景というより、いまだ自分はこの高校に通っている生徒なのではないかと錯覚しないでもなかった。
 
 堂々と玄関でスリッパに履き替え、1階の通路奥にある事務局を訪れた。在学中、ここに訪れた記憶は入学式の日以来だ。
 ある男性の事務員がていねいに応対してくれた。若くもないが、年配でもない。局長の宮部はあいにく私用で外出しているとのことで、代わりに私が局長から言伝されているので、さっそくその私物をお返ししますといって、室を出たすぐ反対側の理科教材室へ案内された。
 理科教材室は、何度か出入りしたことがあった。まだら模様の灰色の背広を着たその事務局員の胸のネームプレートには、花田とあった。
 
 薄暗い理科教材室の隣は、広々とした無機質な理科室だったが、窓ガラスからグラウンドがよく見え、今まさに数人ほどのスポーツウェアを着た生徒らがサッカーボールを蹴っている様子が窺えた。
 卒業生である平井にとって、今ここに居る自分が、不思議な存在のように思えてならなかった。事務局員と自分しか居ない教室内の暗がりに対し、窓ガラスからの光がごく細々と陰影を落としている。寂寥感に陥る術もない。教材室の匂い、すなわち薬品類の発する独特の臭気がたちまち立ち込めて、なんとも落ち着かない場所だと平井は思った。
 そうして事務局員の花田が何やらゴソゴソと段ボール箱の中から取り出してきたのは、ホコリの被ったガラス製の120ml仕様の薬瓶だった。この瓶はいったい――。
 花田によって瓶の蓋が開けられ、平井が中を覗いてみると、あまりにも見覚えのある、無遠慮なものが入っていて内心嫌な気持ちがした。
 
 確かにあれだ――。
 平井にとっては忘れもしない、鈴のアクセサリーと、小さく折り曲げられている手紙。
 ポマードのつけすぎで、頭部の黒髪がやけに光っている花田の直立した様子は、おそろしく古ぼけているようで不快なもの、と感じられた。そしてその綽々とした声で、軽快に話をしだしたことに平井は不安を覚えた。
 
「本来ですと、理科室で使う瓶類はですね、学校所有の大切な教材なんですけど、たまたま今年の4月でしたか、委託先の業者さんから新規に器具を入れ替えたい話がありまして、ほとんど全部新しい器具に入れ替えしたんですね。ビーカーや三角フラスコなんかも。
 そのときに偶然、これを見つけたんですけども、まあ、瓶の中に入っている物と一緒に、この薬瓶ごとお渡ししてもよかろうということになりまして、このままお渡しいたしますね。他の古い器具等はだいぶもう処分しちゃってるんでね、この瓶だけ学校が預かっててもしょうがない。まあ、そういうことでして、お持ち帰り下さい」
 
 平井はお辞儀をして薬瓶を受け取った。
 その時、教材室の窓の外からガタンと音がした。壁の向こうはグラウンドだから、おそらくサッカー部の誰かがボールを壁におもいきりぶつけたのだろう。花田もそちらを一瞬見たことは見たが、すぐに平井の方に向き、また話しだした。
 
「それでねヒライさん、大変申し訳ないんだけど、中の手紙は読んでしまいましたよ。局長と二人で掃除しててこの瓶を見つけたときは、これがいったいなんだかわからなかったんでね。
 それで、中の鈴と一緒に入ってる、手紙を読ませてもらいました。そこにヒライさんの名前が書いてあったんでね、えーと、この手紙を書いたのは、同じ演劇部の女の子でしょ。それで調べて、卒業名簿にあなたの名前があったので、ご連絡したっていうわけです。
 これ書いた、タニハラさんだったっけ。まだ在校生なんだよね、演劇部の。まあ、これを本人のタニハラさんに返すのはちょっと、いたたまれないっていうか、局長もうーんって唸って…。
 だってこれ、あなたに宛てた手紙でしょ? 特別なね。それがこういう形で放置されてて、あなたの手に渡ってなかったんだから、ちょっとタニハラさんに気の毒な気がしてね。
 なのでまあ、先生方に聞いて調べてもらって、同じ演劇部のヒライくんだろうということで、それであなたにお返し、といっちゃあなんだけど、一応学生さんの私物なんでね、これ。ま、それにしても、可愛らしい鈴だよねえ。京都の平安神宮らしいね、この鈴のオモチャ」
 鈴のオモチャ――と聞いて、平井は一瞬、ためらいを覚えた。
 あれは、メグが修学旅行で京都に行った時の土産物だから、オモチャじゃないと否定したかったのだが、こういう場でそういうやりとりをする気にもなれなかった。
 
 平井は薬瓶を自転車のかごに入れて持ち帰り、自宅の2階のガラス窓のそばに置いて、それを眺めながらあれこれ過去を思い出していた。

 平井が高校2年生だった昨年の2月、演劇部の1年後輩の谷原恵美から、箱詰めの義理チョコをもらったことで親しくなり、他の部員の者からチヤホヤされるくらいに関係が深まった時期があった。そのことは平井にとっても嬉しいことだったし、彼女も悪い気持ちは決して無かったはずだと思っていた。
 谷原は部員のみんなからメグと呼ばれ、平井はメグ君と呼んでいた。髪は長く、体型がぽっちゃりとしていて、笑うと頬が赤らんで愛嬌のある真面目な部員だった。後輩の面倒見のいい面もあった。
 メグは、エチュードの稽古では誰よりも真剣な顔つきになって、周囲を驚かせた。普段の温和な表情が消え、きりっとした目つきに豹変する、いわば役者肌だった。そのうえ、母親とか年輩の女性の役を演じると、まさに母性的な、人を包み込むような柔らかい演技がにじみ出ていてとても旨かった。平井はその点でメグが頼もしい後輩だと思っていた。
 
 普段のメグは、めっぽう読書家で村上龍のファンだった。『限りなく透明に近いブルー』の荒々しいストーリーを部員たちに読み聞かせていたこともあったし、平井はその影響があって、一時期、本屋で村上龍の文庫本を立ち読みしたこともあった。
 新学年になった後の5月に行われた演劇部の定例発表会では、「公園にて慥かな海鳴り」という顧問が書き下ろした50分ほどの創作劇をやり、平井が主人公の青年・高千(たかち)役を演じ、メグがその恋人の千里(センリ)役を演じたこともあった。
 二人は夢中で稽古に励み、発表会が終わるまでの数週間は特に、誰が見てもあの二人は本当の恋人どうしみたいだと噂されるほど熱がこもっていた。
 
「ははーん、ありゃあ、公園で出会った二人がキスをし、公園で別れることになるストーリー」
「そうそうそう、ありゃあ、公園のベンチで寝泊まりしてエッチした二人が、公園にいるホームレスと3Pして警察沙汰になるバカ話」

 発表会が終わっていつしか、あの時の演劇はそんなふうに揶揄されるストーリーに伝えられてしまっていた。
 本当はそうではないのに、あることないこと二人に対して茶化した噂が飛び交ったことで、メグは深く傷ついた。時折、平井は、そんなメグの姿を見て悲しくなり、周囲の噂を露骨に否定して打ち消したり、弱音を吐くメグを直接励ましたりもしたが、彼女の気持ちはどんどん落ち込み、噂はなかなか絶えなかった。例えば、メグはもう妊娠しててお腹が大きい、あれは3年の平井の子だ、といったような酷い中傷…。
 
 そうして夏休みが終わった数週間後、メグが京都の修学旅行から帰ってきた2日後のこと。平井のクラスは理科室での研究授業で、松木教諭の地球46億年の話が長く続いていた。
「チキュウが生まれてから、何年経ったか知ってる人…。はい、そう46億年ね。もうそんなに経つのよ」
 どっと笑いが起きた。男なのに唇が赤いといわれて付けられた松木教諭のあだ名は、“くちびるアカまっつ”だった。
 マントル対流がどうとか、地球の内部の核がどうとか、地下のマグマがふきだして海底火山ができるとかなんとか、「地球はすばらしい」という手書きのタイトルがスクリーンに映写されているOHPを見せながら話を進めているうちに、こっそりあくびをするクラスメイトもいた。
「そういう場所にできる海底火山のことを、なんといいますか? はい、ヤマガミくん」
「カイレイです」
「はい、グッド。正解」
 
 平井が座っている後ろの生徒が、「それ、カイメンタイじゃねえの?」と小声で漏らして笑い転げ、周囲もヒッヒッヒッヒと苦笑していたのを聞いていた平井は、振り向きもせずに何も反応しなかった。
 その時、それまで開いていなかった教科書を無造作に開くと、紙切れが挟んであるのに平井は気づいた。それからすぐに教科書の中から鈴が床にこぼれ落ち、きらびやかな大きな音がした。
「おや、なにごと? ヒライ。チリリーンって。何してるのコソコソと」
「いや、いえ、なにも」

 平井は落ちた鈴を拾い、右手で握りしめた。紙切れはまだ教科書の真ん中に挟まったままだった。松木教諭は改まって話を続けている。誰も平井のおかしな行動を見ている者はいなかった。寝ているか、地球46億年の冗長な話を聞き流しているかだった。
 握りしめていた手をそっと広げると、それは平安神宮と刻印された鈴だった。なぜこれが――。平井はその鈴が教科書に挟まっていた理由がわからなかった。
 そうして鈴をこっそりと机の中にしまい、挟んであった紙切れを手にとって広げた。紙切れかと思ったが、誰か女の子が書いた手紙だった。なんとなく平井はいやな予感がした。ばくばくと心臓がうねりだした。
 いっさいの音をたてないようにしながら、平井はそれを読み始めた。やがてそれはメグからのラブレターだと気づいた。
 
「平井センパイへ
 こんなことしてごめんなさい。
 今年のはじめ、青山劇場で、お母さんとローザンヌ国際バレエコンクールをみました。ドニゼッティの曲が本当にステキでした。バレエを観た帰り、駅でぐうぜん平井センパイを見かけました。わたしは平井センパイが好きになりました。
 
 『海鳴り』の舞台では、あんまり仲よくなっちゃったから、みんなにいろいろウワサされちゃったよね。みんな、たぶんわたしたちにジェラシーを感じたんだと思うよ。いろいろいわれて、ショックだったけど。
 でも、センパイがはげましてくれたので、なんとかたち直れました。ありがとう、センパイ。うれしかったです。よわくてどうしようもないわたしだけど、できたら私とつきあってててください。メグ」
 
 マグマオーシャン!
 誰かが大きな声で、そう叫んだ。
 松木教諭の話は、メタンだのバクテリアだの、ミトコンドリアなどといった言葉が出てきていて、平井はなんのことかさっぱりわからなかった。
 
 誰かが質問をした。
 もしチキュウにインセキが落ちたら、チキュウはメツボウするんすか…。松木教諭がそれに応えて、もともと太古の地球誕生の過程では、いろいろな説があるんだけど、あなた、ジャイアントインパクトって知ってる?…。
 ジャイアントインパクト。
 平井は机の中から静かに鈴を取り出し、それを手紙に丸め込んだ。そして授業が終わり、理科室を去る際に、ゴミ箱に捨てた。まるで生き物の生命を抹殺したかのような、恐ろしい気持ちが湧いてきて、平井はおどおどした。
 
 そんなことがあって程ない頃、平井はもう演劇部の部室に顔を出すことはしなくなっていた。部室近くの廊下で偶然、メグが立っていたりすることがあった。メグも平井に気づいて、ためらいながら視線をそらして、平井もはっとなって意識的に目をそらすといった、二人の迂闊なやり取りは、あまりにも心が折れそうなほど暗い所作に違いなかった。
 彼女の仕草には、もうどこにも明るさが見えなかった。放課後にメグが校門を去る時の後ろ姿は、あまりにも若々しさに欠け、無惨なくらいだと平井は思ったりした。
 
 月日はそれほど経っていない。
 ガラス窓のそばに置いた薬瓶をしばし眺めてみても、メグのあの頃の思いに対して、自分の違った答えの出し方を到底見つけられなかったことを悔やんだ。違うやり方で、彼女にやんわりと拒否の態度を示せばよかったのだと。そうすれば、彼女はあんなに暗く落ち込むことはなかったのではないかと――。
 
 平井は、薬瓶を小型のポリ袋にまるごと入れ、家の外に出した。
 気分を変えようと、ラジカセのラジオをつけた。FM横浜。84.7MHz。やがて、ラヴィン・ハドソンの歌声が聴こえてきた。
 
 しかし、なぜ――どういうわけであの時ゴミ箱に捨てたはずの鈴と紙切れ、いやメグからの手紙が、薬瓶の中に入れられて取ってあったのだろう。ずっと教材室に置かれていたのも不思議だし、考えてもよくわからなかった。ドニゼッティ? いや――。
 「Learning How To Love」。ラヴィン・ハドソンの歌声だ。派手に響くサウンドを聴きながら、過去の愚形に溶け込む勇気はなかった。今日一日が長く感じたのは逆にそのせいだ。ラジオから小鳥がさえずる音が聴こえて、そのあとすぐ寝てしまった。

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登場する人物・団体等の名称はすべて架空のものです