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CHAPTER 7

第7章

 アトラクションホールの床に膝を曲げて座り込み、ワークショップが始まるのを待ち構えていた平井は、これからワークショップで使うのだろう小道具らしき茶褐色の木製の椅子が2つ、壁に近いところに置かれているのを見、なぜこの2つの椅子の種類が、それぞれ別なのかを想像したりした。
 一つは、格調高い艶のある焦茶色の、大振りな曲線の肘掛けのあるロッキングチェアで、4本の脚が接合されている底面のアーチ状の部分が、まるで橇(そり)に似ていて、全体は細く、子供っぽい華奢な造りだった。
 もう一つの椅子は、ロッキングチェアよりもさらに一回り小さいもので、座高が低く、肘掛けは無く、とても古い、まるで戦後まもなくの小学校の教室の写真などで見るような、暗い黒茶色をした椅子で、剥げや傷がいたるところに目につくものだった。
 
 室内の時計を見上げると、定時より7分過ぎていることに平井は気づいた。しかしそれよりも、先週なら忙しく準備に動き回っているはずの、補佐担当の小高の姿が見えないことが、気になった。
 やがてその場に稲葉の姿が現れ、しばし、原と打ち合わせらしい話をコソコソとしているのを見た。稲葉は無表情だったが、相変わらず原は終始ニヤニヤしていた。
 ともかく、これからワークショップが始まるのだとすれば、もう確実に小高は来ていないのだということを平井は悟った。稲葉がこちらの方に歩いてきて、始まりのあいさつを始めた。
 
「えーと、先週はフルーツバスケットで遊びましたが、毎回あれをやるわけにはいきません。一応演劇ワークショップなんでね、珍しく今日は、まともな演劇らしいことをやってみたいと思います」
 クスッと女子高校生らが笑った。稲葉が周囲を見渡した後、2つの椅子の方に視線が移った時、なぜかロッキングチェアを眺めている間が長いことに、平井は気づいた。稲葉の表情は、不思議なほど神妙だった。
 
「今日はちょっと人数が多いなあ」
 そういいながら稲葉は、両手を腰のあたりに当て、上半身を軽く揺らした。原がコホンと軽く咳をした。よくよく見渡せば、今日の参加者は、ほとんど10代の学生たちばかりといっても過言ではなく、女子高校生がやけに多かった。まばらに20代後半くらいの男女が数人混じっているようだったが、先週来ていた年配の人たちは全く見当たらなかった。
「先週手を挙げてくれた子いる? あ、いるよね。あれ? せっちゃん今日来てないの?」
 先週のフルーツバスケットで大人気なくはしゃいでいた、せっちゃんという人が、今日は来ていないのだと知り、それで今日はなんとなく雰囲気が穏やかで静かなのだと平井は思った。稲葉はやや冗談気味に、
「なんだせっかく今日は、せっちゃんのお笑いコントが見れると思ったのに」
 その後すぐ、稲葉は真面目な顔つきになって、「イスとあなたとあなた」の即興劇についての説明をした。
 
 登場人物は2人。一人は、最初から椅子に座ったままの状態で、劇が終わるまで椅子から立ち上がる演技をしてはいけない。
 もう一人は、2通りある「アクションの流れ」のうちのどちらかを選択し、即興の会話劇を始める。①座る→立つ→座る。②立つ→座る→立つ。
 劇の時間は5分。どんなシチュエーションでどういう人物設定にするかは自由。ただし、2人は事前に役や演技について打ち合わせをしてはいけない。あくまで即興劇の中で会話をこしらえ、劇にしていくこと…。
 
「じゃあ、イスに座りっぱなしの役の方を、先週手を挙げてくれた男の子、そう君、名前教えて。…イシカワダイキ君か。じゃあダイキ君、そっちのロッキングチェアの方に座って。はいオーケー。それから、もう一つの役はと、えーと、先週手を挙げくれた青年いるかな? あ、君だ。名前は? …ヒライ君か。じゃあヒライ君、まずアクションを選んでもらって…どっちの流れでやりますか?」
 平井は激しく緊張した。体が震え、声がうわずっていた。
「えと、ああ、じゃ、①でやります」
 
「はい、①ね。じゃあみなさんいいですか、これから「イスとあなたとあなた」の即興劇が始まりますよ。まずヒライ君は、椅子に座って。いいですか、君は、座った状態から会話を始めてください。そうして、どこかの折に、立ち上がって演技を続け、またどっかの折に椅子に座って、演技を続ける、っていうふうにやってください。いいですか、みなさんも聞いて。この即興劇は、別に面白い劇にする必要はないし、ウケ狙ったりとか考えなくていいからね。ごく普通の会話劇で構いません。コントじゃないんだから、オチなんかいらないよ。いいですか、何気ない会話ね。じゃあ、ヒライ君いい? みんな、よく見ててね。…はい、スタート」
 稲葉の傍にいた髭だらけの恩田が、パチンと手を叩いた。今日の彼の髪形は、寝癖がこの前よりひどかった。
 
 座高の低い方の椅子に、平井は座っていた。座り心地はあまり良くない。だが、そんな椅子の座り心地を気にしている場合ではなかった。今この瞬間に考えなければいけないのは、何をしゃべり、どう会話を持っていくかだった。
 平井はほんの数秒のうちに頭の中がごちゃごちゃになって、わけがわからなくなっていた。自分でも今、これほどパニックに陥っている自分自身が、滑稽なくらいに不思議だった。
 あれほど高校演劇をやっていたのに――。なぜかこの場ではその経験が通用しない…。いったい何の経験を積んできたというのだろう、それすらもわからなくなるほど、緊張がどんどん内側から膨らんで、体を破裂させようとしている感じがして、心臓の高鳴りが収まる気配はなかった。しかし、なんとかせねば…。即興劇はもう始まってしまっているのだ。
 
「そ、そのイスのすす、す、座り心地は、どんな感じす、すか?」
「え? 座り心地?」
「そ、それ、揺れたり、するっしょ?」
「まあ…そうすね」
 
 平井はその後の展開を全く想定しえなかった。緊張のあまり、言葉を発することさえままならなかった。
「もし、そのい、イスで、ファ、ファミコンやったら、どうなんすかねえ? えーと、例えば、ウィザードリィとか」
「ああ、ウィザードリィだったら、揺れてても問題ないっす」
「じゃあ、ドラクエとか」
「それも大丈夫っす」
「ああ、じゃあ、きえた黄金キセルとかだったら?」
「え? きえた黄金キセル? あ? あ、ああゴエモンすね! きえた黄金キセルをプレイするのも別に、揺れててもとくに問題ないんじゃないすかね」
「そうだよねえ」
 
 その後に何をいえばいいのか、平井は窮してしまった。
 何か会話をつなげなければ――と焦ったが、相手の中学生男子があまりにも冷静に、こちらの眼を見ながら揺れているので、おそらく自分が焦っているのを見透かされているに違いないと、平井は恥ずかしく思った。そうしていっそう、即興の展開を生み出す想像力がしぼんでしまう感じがした。平井はこの間をどうすべきか、全くお手上げであった。
 
 そうだった――。立ち上がらなければと思った。選択したアクションの流れで、どこかで立たなければいけないのだ。それは今しかないだろうと思った。
 平井は途切れた間の中で、すっくと立ち上がった。相手の男子はびっくりした表情で、平井を見続けている。
「あ、あのさ、俺ちょっと、トイレ行ってきても、いいかな?」
 
 思いつきでトイレなどと発してしまった。失敗したと思った。これは変な展開になる、と自分でも気づいた。一瞬平井はまずい、という表情を見せたが、相手はことさら冷静さを保って演技を続けた。
「え? トイレですか? どうぞ行ってきてください」
「あ、ありがとうございます」
 
 平井は股間を押さえるような仕草をしながら、ホールの端の方へ走っていき、立ち止まった。演者も参加者もみな気づいていることだが、そこはもはや、壁でしかなかった。
 これ以上歩くことはできない。しかし、歩きたい。歩く演技を続けなければ、間が持たない。仕方なく体を入れ替え、座ったまま揺れている中学生男子の方をじっと見続けた。中学生男子は待っている演技をしていて、下を向いたまま、揺れ続けている。トイレから帰ってくる平井を待っているという演技だが、平井はどうしようもなかった。
 
 その場に立ち尽くして脚が固まってしまった平井は、もはや、あの椅子のところに戻っていくことができなかった。両足がガタガタと震え、まったく動かなくなっていた。
 そうしてあまりに長く、その場に立ち尽くしている平井の様子を察してか、稲葉はパチンと手をたたき、「はい、それまで」と声を上げた。平井の顔の額から汗が流れ、全身の力が抜け落ちた。
 
「ちょっと続かなかったかな。でもまあ、いいですよ。じゃあ、もう1組やってみましょうか」
 稲葉はそういって、周りを見渡した。
「あ、ダイキ君はそのままロッキングチェアに座っててくれる? えーと、先週もう一人手を挙げてくれた子は? ああ、はいはい君ね。名前は? シノヅカさん? はい、じゃあやってもらいましょう。アクションの流れはどっちでやります? はい、立った状態から座っての、②のほうね。わかりました。じゃあ立ち位置に移動して」
 
 その小柄の三つ編みをした中学生の女の子は、先週のフルーツバスケットでは、駆け足で移動した際に誰かとぶつかって転び、結局オニになってしまった光景を、平井は思い出した。笑った時の顔がなんとなく、演歌歌手の石川さゆりに似ているので覚えていた。石川さんではなく、シノヅカさんなのかと思ったが、平井は笑えなかった。
 
 二人の即興劇は、大きな拍手をしたいくらいに見事だった。
 女の子はロッキンチェアに座っている中学生男子のことを、自分のおじいちゃんと見立て、
「おじいちゃん、起こしてごめんね。気分はどうですか?」
 と最初の台詞を発した。男の子は、それに応えて、
「うん、気分いいよ」
 と即興し、イスに座ってゆらゆらとくつろいでいるおじいちゃんとその孫という設定がすぐに飲み込めた。
 女の子はゆっくりと椅子に座り、普通の会話をしていった。学校でこんな事があったとか、先生がこんなお話をしたとか。おじいちゃん役となった中学生男子は、時折それらしく頷きながら、伸びやかな笑顔を見せた。おじいちゃんも昔、そういう遊びをしたよ、といった会話が続いた。
 
 そうして即興の会話が続いた最後に、
「おじいちゃん、わたし、帰る時間だから、これで帰るね。また来るね」
 といって女の子は椅子から体を起こし、下手とする方に歩いていった。おじいちゃんはその姿を優しく見守るふうにして、視線を下手の方に向けた。ちょうど5分経った。稲葉はそこでパチンと手を叩いた。
 
 稲葉はなおかつ冷徹な表情を見せた。そして、参加者たちに今の即興劇はどんなだったか挙手を促し、何人かの意見を述べさせた。
 それらは概ね好評で、ある者は、
「何も用意されてない即興劇なのに、まるで台本があるかのように流れるような展開で素晴らしかった」
 とか、
「ロッキンチェアに座って揺れている中学生男子がほんとうにおじいちゃんに見えた」
 という意見が出て、みんなどっと笑った。
「ところで、先にやった、ヒライくんの劇の方はどうだったかな?」
 と稲葉が意見を求めると、しばし場内は静まり返り、その間のあまりの長さに、平井は絶句した表情を浮かべ、両耳を塞ぎたくなった。が、ようやく一人、高校生の女の子が挙手し、彼女は話しだした。
「ロッキングチュアで揺れていることに着目して会話が始まったけど、それがゲームの話になって、途中でトイレに行くといって立ち上がって、結局なんの劇なのかよくわからなかったです」
 
 平井は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
 再び動機が激しくなり、この場から早く去りたいと思った。しかし、稲葉の意見は意外だった。
「ヒライくんの即興は、確かに場当たり的に思えたけど、会話がうまく展開できずにしどろもどろになる人は、実際にもいるんじゃないかな。そういう人を演じたということであれば、むしろすごくリアリティがあったと思います」
 さらに稲葉は自分の意見を続けた。
「どちらがいい、悪いではないんですね。たしかに、即興で演じる人は、どう話を持っていっていいのか、椅子に座ったり立ったりが面倒で、こういうのをやると、座るのを忘れて、立ちっぱなしで会話を続けて演じてしまう人もいるよね。話そう、話そうと意識が強く働いて、他の動作や仕草の演技が疎かになったり、動けなくなってしまう人もいます」
 
 他に意見ある人いる? と稲葉がいうと、後ろの方で座っていた高校生の男の子が手を挙げ、稲葉が促して男の子が話しだした。
 少し厚めの黒縁のメガネを掛けた、白い歯を出した笑顔に、意味もなく満点の赤丸をあげたいような、むしろ喩えると、今試合を終えたばかりの高校球児がそこにいるという感じの、とても目立つ明るい子だった。
 
「えっと、2番めの方は、ロッキングチェアで揺れているからおじいちゃんぽく見えたので、もし椅子が無かったら、たぶんおじいちゃんっていうのは見た目わからなかったかもしれないと思いました。1番目の方は、えっと、ゲームの話になったけど、俺も今ゴエモンやってるんで、揺れてても多分プレイできると思うけど、演劇であんまりゲームの話とか無いんで、新鮮に感じて面白いと思いました」
 
 彼は意外に低い声だった。彼が話をしている最中に、参加者の何人かがクスクス笑ったのを平井は聞いた。やっぱりゲームの話に持っていったのは失敗だったと悔やんだ。
 
 その後、稲葉はもう1組の男女を指名し、「イスとあなたとあなた」の即興劇をやらせた。
 平井は自分のやった即興劇を何度も反復して思い出し、その拙さや手落ちのショックから、いま彼らが目の前で演じている即興劇については、あとで振り返っても覚えていなかった。
 我に返ったのは、その3組目の即興劇が終わり、彼らのそれに対する参加者の意見交換をした後の、稲葉のまとめの話の時だった。
 
「はい、いいですよ。いろいろな意見が出ましたね。演劇の稽古というのは、こういうエチュード、つまり即興劇を通じて、それに関して意見を述べ合うことで、課題を克服していくというプロセスがあります」
 平井はこの時、自分の高校時代の演劇部の稽古を思い出したりしたが、虚しさが頭をよぎった。さらに稲葉は話を続けた。
「劇において、『座る』は、セイ、すなわち鎮静や静寂を表します。『立つ』は、ドウ、すなわち行動や展開を意味します。劇はこの2つの要素、鎮静や静寂、それから行動や展開の相互の関係で成り立っているものなんですね。戯曲、そう台本のことですけど、えー戯曲の状態では、これらの要素の意味合いが、なかなか読み解きづらいというか分かりづらいというか、演者が戯曲を読んで、それを自分の身体で演じる時に、すこーんと忘れちゃうことが多いんだよね。そもそも、戯曲にそういう2つの要素がはっきり加わっていないのもあるんですが、そういう劇はたいてい、演劇的な魅力に欠けている場合が多いんです」
 平井が後ろを振り向くと、あの高校球児っぽい彼も、真剣な顔つきで稲葉の話を聞いているようだった。
 
「このセイとドウは、演劇の対話劇、又は会話劇におけるコミュニケーションの『場』の中で、各々の『小さなアクション』と心の『発露』によって形成されます。コミュニケーションの『場』と、各々の『小さなアクション』と、心の『発露』の関係性はどうか。すなわちそれは、劇としての『大きなモーメント』となって、あるいは演者たちの『声』の記憶となって、連なる一塊となるわけです」
 
 このあたりの話を聞いている時、視線の先に見える通路の壁のあたりで、西山の姿を見たような気がした。
「声とは、『コトバ』のことですね。その人が生まれ育った地域や地方の言語が、その人を形づくる実体となって、その人の『人格』となるわけです。親から伝わる『コトバ』というのもありますが、結局は、定住とか移住とかいろいろね、その人の住む環境の変化によって、その人の持つ母体としての言語は微妙に変幻し、『コトバ』はより複雑化していきます。演劇のコミュニケーションの『場』では、そういった人と人とが出会い、それぞれの『コトバ』がぶつかり合い、交ざり合い、さっきいったような『小さなアクション』と心の『発露』の積み重ねの劇、になるわけです。したがって、演劇があるからみなさん演劇を始めたり、演劇に興味をもって取り組んでいるのかもしれないけど、本質的にはそうではなくて、そこに人がいるから演劇が生まれるんだ、劇は作るものではなくて、生まれるものなんだ、ということを知っておいてほしいんです。演劇とは大昔からそういうものなんですよ」
 
 予定の時刻より大幅に遅くなって、ワークショップは終わった。
 平井はコミュニティセンターのロビーに置いてある、簡易棚のところへトコトコと歩いていき、十数の演劇や音楽、セミナーなどの催し物のフライヤーの中から、「劇団『青燐光』7月公演 暗黒舞踏『地底獣』」と記してあるのを1枚抜き取り、それを鞄にしまった。
 
 玄関を出ようとした時、背後から、あの高校球児っぽい黒縁メガネの高校生に呼び止められ、平井はびっくりした。
「あ、ヒライさんすよね? 俺、キドっていいます。ヒライさんのイスの劇、やっぱ面白かったっすよ。あのう、ニシヤマ先輩から、ヒライさんのこと聞いたりしてました。面白い人だって」
「え? ニシヤマのこと知ってんの?」
 木戸は目尻を下げ、笑顔を浮かべながら答えた。
「はい、俺、いま3年なんすけど、高校の美術部にたまに出入りしてて、ニシヤマさん、美術部だから、一応まあ先輩なんすよね。でも俺は、演劇部なんすけどね」
 西山が先週、ワークショップに来ないで遊んで、3人で鍋をつついていたという一人が、このキドという高校生だったのだと、平井は思い出した。
「へえ、そうなんだ。キドくんは、たまにワークショップ来るの?」
「はい、俺も、演劇好きなんで、たまにここ参加したりしますよ」
「ふーん。そういえば今日さ、ニシヤマ来てなかった? 通路で見たような気がするんだけど」
「え、ニシヤマ先輩すか。でも先輩、来るとは聞いてないです」
「そっか。じゃあ人違いかな」
「そうかも、ですね。えっとそれじゃあ、俺、あっちなんで。ヒライさん、演劇頑張ってください」
「ああ? ああ、ありがとう。じゃ」
 
 平井は無意識に軽く手を振った。木戸の黒縁メガネに、少し空の雲が映り込んでいたのが見えたが、彼はコミュニティセンターの駐車場の向こうへと走り去っていった。
 この木戸という男子高校生――キド☆えんまくこと木戸学(まなぶ)――は、のちに平井たちの演劇活動を支える一人となることを、当然ながら平井本人はまだ、知る由もない。だがこれが、彼との最初の出会いだったのだ。
 
 その日の夜、平井は西山の家に電話した。つまるところ、今日コミュニティセンターに来なかったかどうか聞いたのだが、西山の返答は意外なものだった。
「あのな、今日別にワークショップ行くつもりなかったんだけど、小高さん来れないのを恩田さんに伝えとこうと思って行ったんよ」
「なんだやっぱ、来てたんか。え、なに、小高さん?」
「ああ。小高さんな、稲葉さんとこの前、喧嘩したらしくて。イスがどうとかでな」
「喧嘩した?」
「ああ。ワークショップの即興劇で使うから、ロッキングチェア持っていくっていう話を稲葉さんが小高さんにしたら、小高さん激怒したんだって。あれは、思い入れのある椅子だから、ぜったいに持ってっちゃダメって」
「どういうことなん?」
 
「あんな、小高さんと稲葉さんは昔、付き合ってたんよ。その時のなんか思い出のある椅子なんでしょ、ロッキングチェアって。なんか昔から稲葉さんの家にある椅子らしいんだけど、あの椅子は、ぜったいにワークショップで使ってほしくないから頑なに反対したんだけど、稲葉さんはきかなくて。それで怒って、日曜は行かないわっていってて」
「その話、なんでニシが知ってるん?」
「うん? まあ、俺な、小高さんとは知り合いで。いろいろあってね。セミナーとか、まあいろいろ。それはいいんだけど、そのうち小高さん、ワークショップのスタッフ、やめるんじゃん」
「へえ、そうなの?」
「まあ、まだわかんねえけど」
 
 平井の頭の中はゴチャゴチャとしてきて、なんだかあまりにも唐突な話すぎるので、今ひとつわかったようなわからないような、西山に返す言葉を失った。
「ああ、そうだヒライ。おまえ、小学校の時の、お楽しみ会覚えてる? おれたちのコントやろうっつって、クソ松の先生が突発で休んじゃって、お楽しみ会ができなかった時の」
「おお、覚えてるよ。『あかいりんごをきいろくぬりつぶせ』だろ。俺が書いたコントだし」
「そうそう。あ、あ、あれな、うちのハ、ハ、ハチハチエスアールのパソコンのフロッピーにまだ入ってんの知ってる?」
「ハチハチの、フロッピー? 知るわけねえだろそんなの。なにそれ、おまえあれ、あの台本まだあんの?」
「あるよぉ、あるある。フロッピーの中に眠ってたぜ」
「俺はあんとき、お楽しみ会できなくなったから、台本書いたノート、すぐゴミに捨てたけど」
「だろ? だろ? そうだと思ったんよ。で、で、でもな、俺、とっといて、中1の時にその台本をハチハチに打ち込んでてな、それからすっかり忘れてたんだけどさ、おととい、押し入れにしまってたハチハチ出して掃除してたら、出てきたんよ、そのフロッピーも」
「へえ、マジか。なんか懐かしいなあ。ぜんぜん台本の中覚えてないけどね」
「あのコントはやりたかったよな。やったらみんな笑ったと思う」
「クソ松な」
「ああ、クソ松のせいな。みんなあいつのせいだわ」
「そんでそれどうすん? そのハチハチのフロッピー」
「ああ、だから、ハチハチ、ハチハチハチハチエスアール、ほんとはマークツー入るんだけどな、あれ久しぶりにいじってさ、そのデータ出してみてさ、プリントアウトしてさ、紙に起こしてさ」
「じゃあ、残ってるん?」
「おお、残ってますよ。コピーしたから、明日渡すわ」
「おお、サンキュー。ニシ、おまえあいかわらず、おもしれえな」
「そうかもな。いや、そうだろな。じゃ、まあ明日な」
 
 平井は疲れていた。布団にもぐり、手を伸ばしてラジカセのラジオのスイッチをONにした。
 ノイズが酷かった。大西結花の声で、20歳のなんとかというビデオの宣伝の後、早口のDJがなにやらヨコハマ、24クラブ、マルイ、マルイと連呼していた。
 そのうち、曲が流れてきた。静かな曲だった。女性の歌が、いや、その低めの暗い声が、大人びた深い夜の雰囲気を醸し出していた。
 曲が終わりそうなところでフェードアウトしていき、早口の英語のDJの声が聴こえてきた。堅い口調でボソッと一言。「アサカワマキ、トレモロ」――。
 いつの間にか平井はぐっすりと眠ってしまった。
 
 翌日の夕方、新宿駅で平井は西山と会った。そして例の『あかいりんごをきいろくぬりつぶせ』のコピーを受け取った。
 帰りの電車の中でそれを読んだが、よくこんなものを小学6年生の時に書いたものだと、自分で自分を褒めてみた。
 しかし、すぐにそれは自惚れだと気づいた。昨日の演劇ワークショップの無様な自分を思い出し、演劇に関して自分は何もできていないことを恥じた。
 そして何気なく、漠然と、『あかいりんごをきいろくぬりつぶせ』からやり直すことはできないだろうかと思った。さっき会ったばかりの西山の顔が、ふと頭に浮かんだ。

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この物語はフィクションであり、
登場する人物・団体等の名称はすべて架空のものです