第3章
上野の下谷の街は、都会の喧噪と下町の情緒が入り混じった居心地の良い空間だった。9階の教室の開け放った窓から、ざわざわと都会のうごめきが聞こえ、生暖かい風が吹き込んでくる。昨日とは打って変わって晴天だ。平井は時折、窓からの風を浴び、睡魔に襲われそうになった。
奥行きの広い教室には、およそ40人くらいの男女の学生たちがあちらこちらの席に座っている。学生たちは講師の喋った事柄を真剣な面持ちで、シャーペンを片手に自分のノートに書き込んでいる。
平井の座っている席の真向かいの壁際には、「ちびまる子ちゃん」のトートバッグを抱えたチノパンの女子がいて、右隣に座っているほっそりとした革ジャン姿の男子に、ずっと話しかけていた。黒髪がやけに長いのが目立つ。彼らは男女5人の仲のいいグループのようだった。
チノパンの女子が、革ジャンの男子に「ジュンスカ…」と小声で話しているのを平井は聞き取った。「ヒビヤ」というのも耳に入った。とくに耳を澄まして聞いていたわけではなく、彼女のテンションの高い声で耳に入ってきてしまうので、平井は彼らの存在を意識せざるを得なかった。彼らはぜったいロックのバンドをやっていると平井は確信した。その時一瞬見ると、後ろに座っていた黒いTシャツを着た男子が、チノパンの女子の頭を小突いてにやけていた。
井沢というひょろっとした体型の講師の声は、それに反していやに大きかった。教室の壇上で熱心に喋り続けている。平井は時折、井沢の顔を窺いながら、喋った事柄を要約してノートに書き写し、集中力があまり持続せず、すぐにまた窓の外を眺めたりしていた。
高校1年の時、演劇部の文化祭の演目で、グリム童話の劇をやったっけと、平井はふとその時のことを思い出した。「ネコとネズミのいっしょのくらし」――。平井にとっては演劇部最初の劇だった。ネコ役をやったのは部長だった麗紋先輩。ネズミ役は2年生の坪井先輩。坪井先輩は小柄なのに、身のこなしが抜群の男子でセリフ回しも達者だった。麗紋先輩のネコ役は、ネズミに対する容赦ない態度がまるでタカラヅカ歌劇団のようでドンピシャだった。
一瞬、窓からの風が強く吹き、左の眉毛のあたりが痒くなり、平井はそれを左手で搔きむしった。そうして井沢の講義が続く中、窓の外の視界のずっと奥に見える、微かな中小のビル群の白っぽさにうっとりした。
平井はその時、麗紋の細かった体を思い出していた――。
〈俺は麗紋先輩が好きだったんだよな〉と自分でわかりきっていることを、少し恥ずかし気に心の中で呟き、なんとなくあの革ジャン男子らへの対抗意識を打ち消したいと、彼は奇妙な心持をともなって落ち着かなかった。
――あの頃、麗紋の襟元の首筋が、やけに白かったのを思い出した。
部活の練習中に何度も彼女をチラ見して、その白さがずっと彼女の全身を貫いているのだと、空想を拡げたことも思い出した。きっと彼女の首から下は、乳白色の肌に違いないとその時思ったのだ。
麗紋の肉体のイメージは、平井の空想の中でやや具象化しかけた。しかし、イメージとしての肉体は、誰にも打ち明けることのできない秘密の想像の産物なのだと、彼は空しさを覚えて心がくじけそうになった。その時、チノパンの女子の短い笑い声が耳に飛びこんできて、窓の外の情景と麗紋の肉体の想像は、たちまち輪郭を失った。
伊沢の声が一瞬凍り付いたように甲高く響いた。
ふと我に返り、伊沢の表情を見た。悲しい顔のようにも見えた。だがそれは気のせいだと平井は思った。この間、ノートに何も書き込んでいないことに気がついた。
「いいですか、皆さん、さっきビデオでコマーシャル映像を一つ見てもらいました。出てた女性はジェーン・ライドンですね。まだ若い時です。モデルをやってた頃で、今は知っての通り映画俳優さんですよね。ジェーン・ライドンはエジンバラ公の縁戚にあたる一家の出で、品のある華やかな風情がありますね。あの頃はまだ若すぎて、そういう雰囲気は薄かったですけど」
平井はノートに、“コマーシャルと印刷広告”とシャーペンで大きめな字を書いた。この間、伊沢の顔が穏やかに戻ったのに気づいていない。
「えーと、あのコマーシャルは、昭和35年から始まった、精美堂の夏化粧のキャンペーンの、第1号のコマーシャルです。最初に配ったプリント見て下さい。さっきのは、精美堂のトパーズケイクというコマーシャル・フィルムなんです。もう古いコマーシャルですから、映像のカラーのね、調子も色褪せてましたけどね、今と違って懐かしい感じがしますよね」
プリントのインクの匂いがやけに鼻に付くと平井は感じた。プリントの紙質が、高校の時に使われていた藁半紙よりも微妙に厚みがあって、再生紙としては高級感があるようだった。しかしそれにしても、写真のジェーン・ライドンの顔の白っぽさに何かドキリとするものを感じた。
「トパーズケイクのナレーションがそこに書いてあります。ちょっと読んでみますか、えー、わだかまりから解放された朝。泣き崩れたあの時も、美しかったと思われたい…という女の人の声のナレーションでしたね。ちょっとクールな感じの声で、いまあんまりこういう感じのナレーションはコマーシャルに無いというか、ウケないですね。最近の化粧品のコマーシャルは、どちらかというと明るい感じの音楽でイケイケなやつが多いですが、以前よりも消費者のターゲットの年齢層が若くなってることが理由です。まあ、その点で昔より派手になりましたよね」
革ジャンの男子が座り疲れをしたのか、椅子から腰を上げたかと思うと、すぐにまた椅子に座りなおした。
「えー、おわかりのとおり、テレビコマーシャルというのは、企業の広告です。ある商品を販売する、宣伝促進のための一つの手段ですね。ですから、トパーズケイクのコマーシャルの場合となりますと、精美堂です、トパーズケイクという商品を販売してます、夏になりました、皆さん買ってくださいっていうおおもとのねらいがあるわけなんですが、紙の広告と、テレビコマーシャルの広告とでは、まったく違うアプローチで宣伝するわけです。いいですか、どういうことかというと、ちょっと書いて整理してみますね」
そういって伊沢は、自分の持ってきたノートを見ながら、ホワイトボードに黒い文字を書き出した。慣れた手つきで書き出している井沢の横顔を眺めながら、平井はシャーペンを強く握り、身構えた。
「メディアというのは、つまり媒体のことですね。テレビとかラジオとか、新聞とかいろいろあります。印刷媒体は、紙の上に、そのスペースに情報を印刷して、配置すると。テレビとかラジオの電波媒体は、映像や文字や音声の情報を、時間軸に沿って配置すると。ここが違うんですね。いいですか、印刷媒体は、空間が情報の手段で、電波媒体は時間が手段なんですね」
黒いTシャツの男子が、シャーペンを床に落とした。腰を曲げてそれを拾い上げると、チノパンの女子が軽く咳をした。その数秒もの間、井沢の視線がほんのわずかそちらに移ったのを平井は見ていた。
「ここまで、いいですか、はい。えーとね、紙の広告はね、見たくなければ見なくていいんです。見ないことができる広告。見たい人だけ見れるというのが、紙媒体の広告の特徴なんですね。雑誌とか新聞とかにある広告って、その人が興味ある時は、何度も見たりしますよね。興味のない広告は見ないし、紙媒体の広告っていうのはそこらじゅうにあるから、いちいち全部目を通さない。ですけど、テレビコマーシャルというのは、ちょっと違う。見たくなくても、テレビに映ってくるでしょ。コマーシャルが流れちゃってるでしょ。見たくなくても眼に入っちゃう。あるいはナレーションとか音楽が、耳に入ってきて思わず聴いちゃう。紙の媒体よりも、ちょっと強引なところがあるんだよね。コマーシャルというのは、1回流れると、次のコマーシャルが出てきて、もう一回さっきのコマーシャル見たいなあっていうのができないでしょ。それもコマーシャルの特徴です。流れてるから、繰り返しては見れない。コマーシャルっていうのはそういう特性がある。番組の合間合間にコマーシャルが入り、時間軸に沿って構成された映像やらナレーションやら音楽やらが展開されていって、15秒とか、30秒とか、60秒で終わる。終わったら次のコマーシャルに移っちゃう。広告としては、1回ぽっきりの効果なんだよね。まあ、その番組の中で、同じコマーシャルが何度も流れてくることもあるけどね。そういう流れも全て決まっていて、見るほうの意思とは無関係なんです。それが紙の、印刷媒体とは違う、時間の広告なんだということです」
平井は頭のてっぺんを掻きむしりながらペンを走らせた。説明が早くて追いつけなかったが、おおむね話の要点を書くことはできたと思った。
「そんでね、コマーシャルを撮影するスタジオはメチャクチャ熱いの。照明をバンバン炊くから。昔のフィルムっていうのは感度が低いから、部屋を、スタジオを明るくしないといい感じに撮れないの。このトパーズケイクのやつは、夏に販売する化粧品でしょ。真夏のイメージをつくるために、あっちこっち顔も後ろも真っ白になるくらいにハイライトきつくしないといけないから、バンバン照明炊いてる。だからモデルさんはたいへんですよ、熱くて。眼が焼けるくらい熱いからね。だからみんな眼を悪くするんですよ、モデルさんとか俳優さんはね」
そのあともう一つの講義が終わった正午過ぎ、平井は3階にある食堂に立ち寄って、購買部でコーラの缶ジュースを買って飲んだ。3階は学生たちが多くタバコを吸うので、その紫煙が部屋中に立ち込め、異様なほど煙深く、タバコ臭かった。食堂のテーブルにはあちらこちらに学生たちが座って食事をしたり、笑い声をあげて話をしたりしていた。
平井がコーラを飲み干そうとした時、ふと見ると、食堂の片隅で例の連中を見かけた。そのうちのチノパンの女子が、ツナサンドを片手に持って食べていた。食べながら何か話をして、時々顔をくしゃくしゃにして笑ったりしていた。革ジャンの男子はいなかった。相変わらずおしゃべりな女子だと平井は思った。麗紋の顔が一瞬浮かんだが、すぐに気持ちが冷めて階段を駆け足で降りていった。
その週の土曜日の夜。
平井の家に電話がかかってきて、平井が2階から駆け下り、受話器を取ると、相手は西山だった。明日の演劇ワークショップは行くのかと訊かれた。
平井はもごもごとした口調で行くと告げた。「ほんなら俺も行く」と西山はぶっきらぼうに答えた。
「フランソワズ・ロゼイの本は読んだん?」と訊かれたが、平井は「読んでない」と即答した。西山は電話の向こうで「へへん」と笑った。
先週の日曜日、図書館に行って、フランソワズ・ロゼイの別の本を探してみたが、無かった――という話を西山にしようと思ったが、急に喋るのがめんどくさくなったのでやめた。「じゃあ明日、10時からだから、9時半ぐらいにセンターに行くわ」と西山がいって、平井は「おお」とだけ答えて電話を切った。
すぐにまた電話のベルが鳴った。平井が受話器を取ると、相手はさっきの西山だった。
「いうの忘れてた。駅前のレンタルビデオ店でな、フ、フ、フランソワズ・ロゼイが出てる映画のビデオな、置いてあんのよ。えっとね、ええー、なんつったっけ、タイトル、あ、ああ、オンナノミヤコだわ」
「オンナノミヤコ?」
平井は“女の美弥子”というタイトルを思い浮かべた。
「そうそう。シロクロの映画。いちおう、まあ、借りてみれば」
「おまえは借りて観たの?」
「ふん、借りてねえよ」
「なんだ」
「まあ、まあ、いいじゃん。おれもよくわかんねえから」
「ああ、今度行った時、“女の美弥子”探してみるわ」
「じゃあとりあえず明日な」
「うん、じゃあね」
電話を切った後、平井は一瞬、映画のタイトルがおかしいんじゃないかと気づいた。そもそも自分がまだ、もらった本を読んでないことに初めて憤りを感じた。だがすぐに、「やべえな、オレ」と口に出して、それを茶化した。明日の演劇ワークショップに行くのはすごく楽しみだと、平井は思った。
部屋に戻り、布団の上に寝そべって、真っ暗な天井を見上げた。いま、西山からもらったあの本を開いてみようかと思ったが、めんどくさくなってやめた。
天井を見上げたまま、動かず、平井は考えた。フランソワズ・ロゼイ。そもそも演劇の本なら、フランソワズ・ロゼイの本よりためになる本は他にあるだろう。西山が意味不明に買ってきた本を、いちいち読む必要はないんじゃないか。それに、なぜ自分がフランソワズ・ロゼイの映画を見なきゃいけないのか、別に理由はないのだ。西山のことが少し厄介だが、ロゼイの本を読むのも、ロゼイの映画を見るのも、いま特段に決める必要はないと、平井は結論付けた。
翌日の日曜日は曇り空で、時折雲の隙間から太陽の光が射す程度の穏やかな天候だった。腕時計の時間は9時24分。平井はコミュニティセンターの窓ガラスのある玄関で、すでに数人集まっていた人の中から西山を探したが、まだ彼は来ていなかった。肩にかけていたバッグがやけに重いと一瞬感じた。そうだった、今日は母親が作ってくれたおにぎりを、アルミホイルにくるんで2個持参してきたのだと思い出した。