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CHAPTER 6

第6章

 火曜日の午後。平井は駅前のレンタルビデオ店に立ち寄って、ロゼイのビデオを返却した。その折、ロゼイの出演作の『旅する人々』のビデオを探してみたが、名画コーナーにそのタイトルはなかった。
 『アンナ・カレーニナ』というタイトルが目に止まったので、手にとってビデオを眺めた。子どもの頃、家の本棚に、緑色の分厚い本で、“アンナ・カレーニナ”というのを見たことがある。その本を映画化したものだろうと平井は思った。原作はトルストイ。監督はジュリアン・デュヴィヴィエ。出演はヴィヴィンアン・リー、ラルフ・リチャードソンとある。
 平井は借りてみようかどうしようかと悩んだ。思い切って借りてみたかったが、気持ちが億劫な方にぐらつき、店を出ることにした。ポスターのマイケル・J・フォックスがこちらを睨んでいるように見えて、ぎょっとした。
 
 その日の夜、テレビの「ポール・ダニエルズ・マジック・ショー」を見ていると、電話が鳴った。西山からだった。その声はいやに元気だった。
「よう、ヒライ。あのさ、この前さ、キ、キ、喫茶店に入ったじゃん。あのときさ、カセットテープ見なかった?」
「ああ、あれか。置いてあったよ。たぶんニシが忘れていったんだろうと思って、俺持ってる」
「ああ、やっぱり。家に帰ってさ、カバン見たらさ、入ってなかったからさ、喫茶店で落っこどしたかなあと思って。やっぱ、ヒライが持ってんだ」
「おお、あるよテープ。返そうか? あれなんなの?」
「なにが?」
「テープ」
「テープ?」
「テープの中、何入ってんの?」
「何って、別にいいじゃん。っていうか、聴くなよ」
「は?」
「まさかもう聴いたんじゃねえだろうな?」
「聴いてねえよ」
「じゃあ、ぜったいに聴くな」
「なんで?」
「なんでも」
 西山は笑ってはいたが、口調は逆にこわばって、頑なだった。平井も途中から笑いだして、
「なんか変なもの入ってんだろ? いいよ別に。別に聴きたいわけじゃないから」
「おう。ス、ス、棄てていいから」
「棄てていいの?」
「いいよ、別に。棄ててかまわない」
「じゃあ棄てるかも」
「マジ棄てろよな」
「ハハハ…。なんだよ、めちゃくちゃ何入ってんのか気になるじゃん」
「いやあ、あれね、大したもんじゃないの。別にいらないの。俺の声が入ってんだけどさ、ノンコがさ、この前テープに勝手に録音しただけ。この前、花屋の小高さんとセミナーの打ち合わせで電話してるときに、ノンコがふざけて勝手にラジカセの録音ボタン押して録音して、俺の声が入ってるだけ。そんだけ」
「なんだよ、もっと変なやつかと思った」
「なに、変なやつって?」
「いや、なんでもない」
「とにかくさ、いらないから、棄てといて」
「ああ、わかった。じゃあ、棄てとく」
 
 程なくして電話を切った。2階に駆け上がった平井は、埃にまみれて古汚くなっている赤いラジカセをベッドに無造作に置き、試しにラジオを付けて、電池がまだ入っているかどうか確認することにした。
 ニッポン放送の音楽番組で、デヴィッド・アクセルロッドの「Holy Thursday」のイントロが流れてきたので、まだ使えると思った。カセットテープを引き出しから取り出して、チャカチャカと横に振って音を鳴らして遊んだ後、それをラジカセにセットした。
 再生ボタンを押し、およそ90秒くらいまで、全くの無音だった。平井はあれ? と首を傾げたが、その直後、カタカタッと音がして、西山の話し声が聞こえてきた。普通の話し声だった。耳を澄まして聴いていたが、2分くらいして、音声は切れた。
 
 西山の隠れたプライベートが発覚するような、そういう聞かれてはまずい音声が入ってると期待していたが、ごくありふれた話し声だったので、平井は拍子抜けした。
 このテープをしまっておくか、それとも棄てようか、悩んだ。すぐに結論が出ない気がしたので、とりあえずラジカセからテープを抜き取り、それを元の引き出しに戻した。その後、パープル・ヘルメッツのCDをかけ、鳴り出す前に部屋の明かりを消した。そうしていつの間にか、気が付かぬうちにそのまま眠ってしまった。
 
 日曜日の朝は曇りだった。
 くまのぬいぐるみのキャラクターがあちこちに散らばった、白っぽいパジャマを着ている母親の、コーヒーを淹れている手が止まり、テーブルでトーストを食べている平井に向かって喋りだした。
「ねえフミタカ。お前、麗紋ちゃん知ってるでしょう? 松本さんとこの娘さん。あんたより2年上じゃなかった?」
「そうだよ」
「あの娘(こ)ね、いまニューヨークに行ってるんだって」
「それは知ってるよ」
「あそうなの。昨日、松本さんちで買い物して、お母さんと話して、麗紋ちゃんはミュージカルやりたいんで、ニューヨークに留学してるんだって」
「そんで?」
「なんだっけ、ブ、ブルックリン? とかに住んでて、バイト先の店長さんに可愛がられて、なんかお店の広告の写真になってるんだって。その広告のコピー、もらってきたんだけど、あんた見る?」
「へえ、そんなのあんの?」
 
 母親は無言で台所を離れ、隣の部屋の隅に置いてあった革製のバッグの中から、1枚の紙切れを取り出し、それを持って戻ってきた。
「これ」
 その紙には、確かに麗紋先輩の大人びた顔が写っていたが、複写の質があまり良くなく、広告自体もおそらく雑誌か何かに載っていたものと思われ、それほど質がいいものではないようだ。麗紋先輩の近況を知る手がかりではあったが、彼女の美人らしさのディテールをそこから見出すのは難しかった。平井は少しがっかりした。
「ね? 写ってるでしょ? 麗紋ちゃんって、すごいね」
 
 松本麗紋――。思いは募る一方だ。高校時代は部活であれほど近しかった麗紋先輩が、卒業後にアメリカに行ってると部員から聞いてショックを受けたのは、一昨年の夏だった。秋の文化祭の劇の稽古で、自分は役をもらっていたから、今年の文化祭に麗紋先輩が絶対に見に来てくれて、久しぶりに会える、自分の演技を見てもらえると期待していたのだ。ところが、彼女はもう日本にいなかった。
 麗紋先輩は児童劇団を経験し、才能を活かすためにアメリカに行って、その道のプロを目指すために挑戦している。何もかも自分とは違う、かけ離れた人だった。
 最初は尊敬と憧れの気持ちが強かったが、1年生の終わり頃、はっきりと自分の中に彼女に対する強い恋愛感情が芽生えた。麗紋先輩ともっと傍にいたい、話したい、できうるなら舞台の上で共演したい、自分たちだけの心の通い合いを保持したいという欲求があった。
 いま自分にとって、唯一、遠いアメリカにいる麗紋先輩の近況を知る手がかりは、松本金物店にいるお母さんから、彼女の話を聞くことだった。幸い、母親同士でなんとか交流があるので、こういった形で情報提供されるのは都合が良かった。近所の好というのがこれほどありがたいものだとは――。
 平井は少しばかり熱っぽく彼女のことを考え、その想いに没頭した。そうなのだ。たとえどうであっても、その紙に写っているのは彼女なのだから、期待を膨らませすぎたり、不明な点にとやかくケチを付けるのはやめようと思った。紛れもなくそこに写っているのは、あの近しかった麗紋先輩なのだから、と平井は興奮した。
 
 「児童劇団は辞めたらしいよ。とろぴかるっつったっけ」。何気なく唐突に母親が放った言葉は鮮烈だった。返す言葉がなかった。
 児童劇団を辞めた――。
 ということは、本格的にアメリカで活躍するということか。だとすれば、もう日本に帰ってこないのではないのか。平井は首筋に汗を掻き、足元が熱くなるのを感じた。よりいっそう彼女は、自分から遠のいている、という現実を目の当たりにして、一瞬絶望的になった。しかし、自分も彼女と同じ演劇の世界に身を投じているということだけは、なんとなく希望が持てる気がした。そこに自分を開放していく以外に、心の拠り所はなさそうだった。
 
 コミュニティセンターの玄関には、先週よりも少し多い人数の参加者が集まっているようだった。西山の姿を探してはみたが、やはりいなかった。
 やがてドアのロックが解除され、ちょっとした群衆の後ろに付いて平井は中へ入り、程なくして受付での参加申し込みの手続きを済ませた。エントランスの椅子に座り、天井の模様を眺めたり、奥の廊下から人が出入りするのを眺めたりして時間をやり過ごした。
 その廊下で、鼻をこすりながら歩いている恩田さんの姿を見た。相変わらず顔は濃いヒゲで埋まっていた。
 そういえば今日は、「椅子とあなたとあなた」という寸劇をやるはずだと平井は思い出した。自分になにか役が回ってくるはずだということも思い出した。なにをするのだろう。なにをされるのか。これから始まる演劇ワークショップは、自分の何を変えてくれるのか。稲葉さんはきっと自分を支持してくれるだろうから、彼のやろうとしていることに率直についていけばいいと平井は思った。時計の針の動きが遅いと彼は感じた。

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この物語はフィクションであり、
登場する人物・団体等の名称はすべて架空のものです